父安太郎の商売独立と結婚
松栄橋
父安太郎、西区靱上通り2丁目松栄橋際の
土蔵を改造した家に居住
− 湯川 茂 述 『先代を語る』より −
明治二十七年、父安太郎の奉公先(塩干物問屋・貴田商店)が倒産。それを待っていたといわんばかりに、方々の店から「来てくれ」「来てくれ」と破格の待遇で引っ張りだこという状態でしたが、「長年の商売経験を生かして独立に踏み切りたい。しかし、ともかく信心している者としては金光様にお伺いして……」と思い、そこでご本部にお参りして三代金光様に事情を申し上げて、お伺い申し上げると「小売りをしなさい」とのお言葉でした。
 「しまったなあ」と心の中でがっかりしました。「小売りをさしていただこうにも、資本がございません」と言葉を返しましたが、「おかげを蒙れば資本は要りません」との仰せです。

 自分は小さい時分から問屋育ちで、大阪へ出てからも、卸問屋で勉強をした。小売屋ということは、これまで考えたこともない――小売商いというものを余程、見下げていたのですね――それを「小売りせい」とおっしゃる。しかし、また思い直して「金光様のお言葉は神様の仰せである。神様の仰せなら仕方がない。一つ決心して小売りをしよう」ということになりました。
 小売りするというても資金はなし、初めてのことですから、どんな物を仕入れていいか見当がつかないので、一生懸命に神様にお伺いすると、「剣先するめを買え」とのお知らせだったので、そのとおりに、なじみの店で剣先するめ(注=するめの中で最高級の品種)を何程か仕入れました。それから、するめを持って街なかを一軒一軒と売り歩いたが、なかなか売れない。しかし、根気よく歩いて回り、夕方近くなってようやく売れるようになり、全部売り尽くしました。そして二十四銭三厘の利益があった。

 神様から「よう考えてみい」と言われ、これまでは問屋商売で、もうかっても損しても大きな金額ばかり扱っていたが、小売商売では何べんも頭を下げ汗水流して、一厘一厘を積み上げていかなければならん。一厘一厘のお金の貴さを分からされたというわけです。
 父が少年時代にやっかいになりました中尾家、土居家という家がある。ここに「中尾楠吉」夫婦と「土居みね」と申します、この三人の老人がおって、この人たちはどうしても父が世話をしていかねばならぬ。もち論、実母がおります。この四人の年寄りを見ていかねばならぬ。これをほんとうに気兼ねなしに自分の思うように見ていこうとすると、外からもろうたんでは、嫁さんに気兼ねをせねばならぬ。幸いに「土居みね」という人には、年ごろの娘が二人ある。これをもろうたら、老人の面倒を見ていくことに気兼ねがない。自分の親を見てもらうのに、文句をいう嫁があるか。実母の方にしても、これは文句はない。そういう細かい配慮で、これをもろうたらええだろうと思いまして、そのことを金光様にお伺い申し上げると、金光様は「それをもらえ」との仰せでした。そうして嫁さんにもろうたのが、「湯川ひで」であります。ご承知かと思いますが、あまりべっぴんさんではございません。

 「あんた、こんな程度の人をもらうんだったら、私が世話しようと言うた中には、もっとべっぴんさんがあったのに。それを″いやや′セうておって、こんな人もろたんか」というて親しい友達から笑われたそうですが、結婚したのは明治二十八年十二月五日でした。和歌の浦時代に同じ家に暮らして、お互いによく知っておるわけですから、初めて所帯を持っても、非常にしやすい面もあったわけです。
 両親が結婚した月を十二月と、なんで私が覚えているかといいますと、晩年のころに二人で思い出話をしておるのを傍らで聞いておったことがあるのです。父が母に「年の暮れに嫁に来て、随分えらかっただろうなぁ」と、言うておった。貧しい生活だったから随分苦労をしたことは、私も前から想像しておったが、年がおし詰まって嫁入りして来たことが、なぜ特別えらい目をすることになったのか、その時の両親の話で、私は初めて知ったのです。――その時分の十二月というたら、もう小売商人はもうけ時で忙しゅうて、仕入れはせんならん、おつまみの細工はせんならんというようなことで、大変な忙しさだったらしい。

 母は嫁入りして来て間がないのに、父はやかましい言うて「あれせい」「これせい」と仕事をさせるので、とうとう寝られぬ晩が何べんもあったらしい。母は慣れないことですから、しまいには目が真っ赤になってはれ上がった。「あの時、目を患ってつらかっただろうが、よう辛抱してくれて、おかげで、あの時の正月を無事に越したなあ」と、こういうて二人で話をしておりました。
          
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