授け心に受け心 ― 初めての遷霊 ―
 22歳 大正11年3月教師補任
― 湯川 安太郎 述 『信話集』より ― 
 ただ今、お結界に坐らして頂いている伜(二代教会長)は、金光教教義講究所を出たばかりですが、私は出て来るなり

「今日から、私の代理で、お結界に坐らして頂きなさい」
「私は、何にも判りません」
「わからんでもええ。信者が何いうて来ても、躊躇せんで、思うただけの事を、いわして頂いたらよろしい」

 随分、無理な話ですな。この間まで、学校へ行っておって、講習から帰るなりでっさかいな。信心も何にも判ってませんが、それでよろしいねン。
 それで、四日して、遷霊がありました。信者さんで、お国替した人があったので

「私は忙しうて行かれんから、あんた、代りに行って、遷霊のおかげ頂いて来なさい」
「でも、それは」
「習うて来たんじゃろ」
「習うては来ましたが、そら、型を習うただけで、遷ったか、遷らんか、私には、それが判りませんから」
「判らんでもええ。私の代理で行くんやから、気遣いない」
「ほかの事なら、何でもよろしいが、遷霊だけは」
「かまわん。私の代理で、死んだ人の名を呼んで、霊を遷せばええねン。遷ったと思うたら、もう呼ぶ事いらん。十ぺん呼んでも遷らんと思うたら、何べんでも、呼びなはれ」
「むつかしいですなあ」
「何も、むつかしい事ない。神さまに父の代りに遷霊さして頂きます。どうぞ、父同様におかげ頂けますように≠ニ、お願いしてやらして頂けばおかげ蒙れる」そういうてやりましたがねッ。

「遷霊のおかげ蒙って来ました」と、いうて帰って来ました。
二代教会長
 四、五日して、私の信心友達の奥さんが、
 「あんたとこの若先生、妙でんなあ。この間、うちの近所の遷霊に来やはりましたさかい、この間、講習出たばかりの若いのが、どんな遷霊ができるか、玉水の先生も無茶しやはるなあ≠ニ思うて、どんな風にしやはるやろかと、その遷霊ぶりを見に行きましたが、何某の霊と二回呼んだかと思うと、霊が遷ったんか、それで、ピシャッと、やめてしまわれましたが、あれで、判ってますんやろか、どうも、私には解釈できん」と、いいますから
 「何にも、むつかしい事じゃない。不思議がる事もない。それが、当り前じゃ」
 「何で?」
 「あんたは、本人だけを見ているから、そんな理屈が出て来るが、私の代理で、仕事さして行きますから、ワケないんや」と、返事した事がありますが、この徳を頂くという事、徳をつぐいう事――は、何も、教会の先生だけに限った事ではありません。
 
  ただ、ここで大切な事は、何やいうと、そのアトつぐものに、この「親の徳を受けつぐ熱意があるかどうか」という事であります。せっかく、親が徳をゆずり渡しても、それを受けつぐものが、「ワシは何も知らんわからん、ワシはあかん」で、受けつぐ心がなくっちゃ、なんぼ、神さまから親の徳をゆずり受けるおかげ蒙っていましても、自分から逃げることになりますから、せっかくの神さまの思召もフイになってしまいます。あとすざりしたら、縁から落ちてしまいます。こっちから、向うへ出たらよろしいねン。それで、そこんとこ気ィつけておりましたら、それでつづきます。授け心に受け心ですなあ。
          
 
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