「我が信心の歩み」 (連載第3回)


[三] 測り知ることのできないおかげ


 そこで、このように、私が助けられるまでに、十三年かかったと言いますと、なかには「先生のようなお方でも、十三年かかるようでは、信心というものは、そんなにまで根気強く続けてゆかなければならないものでしょうか。とても、自分のようなものでは及びもつかんことです」と、こう思う人があるかも知れませんが、もしも、そのような考えがおきるようなら、その人は、まだ何事によらず、目先ばかりにとらわれていて、お互いをお助け下さるために、ご苦労下されてある神様の思召しが、はっきりしていないからであります。

 神様が――親神様が、この自分一人だけを助けるために、どうして十年も十五年もおかかりになるのでしょうか。私も、初めの間、この点がどうも納得できず、疑問をもったものです。しかし、その後『信心は日々の改まりが第一じゃ。改まりによって、親先祖より子々孫々にいたるまでおかげを蒙る』という御教えを聞かせてもらいましてから、なるほどそうだと、そこの道理をはっきり分からせて頂くことができました。

 お互いの信心は、とかく目先のおかげに目がくらんで、なんでもこの自分が、片時も早く助かりたいと、ひどくあせりますが、それは見当違いであります。神様の思召しは、そんな目先だけの、うすっぺらなおかげを、下さろうというところにあるのではありません。一体この自分というものは、どんな自分であろうか≠ニ、ここをよく考えてみる必要があります。

 普通、お互いは、自分というものを、ただ自分ひとりだけあるもののように考えておりますが、この自分というものは、自分だけの自分というような、そんな単純なものではありません。上にさかのぼりますと、親先祖あっての自分であり、また、下にくだってみますと、自分あっての子々孫々であります。ですからこの自分というものは、親先祖からも、子々孫々からも、どうしても切り離すことのできないものであります。そこの道理もわきまえないで、自分ひとりだけを、ごぼう抜きにして助けて頂こうというのは、あまりに浅はかな考えのように思われます。

  『信心は日々の改まりが第一じゃ。改まりによって、親先祖より子々孫々にいたるまでおかげを蒙る』とおっしゃったのは、神様の思召しが、改まりによって、自分というものが助かるばかりか、親先祖も助かり、子々孫々も助かるおかげを下さろうというところにあることを、教えて下さったものであって、お互いの助かりは、親先祖の助かりであり、また子々孫々の助かりとなるのです。御理解に『信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい』とありますように、神様の広大無辺な思召しを、はっきり分からせてもらって、信心の徳と力が、どんなに測り知ることのできないおかげとなって現れるかを、悟らして頂かねばなりません。

 ところで、私がこのように言いますのは、頭の中でこねあげた中身のない空の理屈講釈ではなく、およばずながら改まらしてもらい、助けて頂いたことによって、親先祖をはじめ、家族から子々孫々まで助けて頂き、その上に、親類縁者は言うにおよばず、何千何万という信者の方々までも、助けて頂くようなおかげを蒙っているからであります。論より証拠です。誰も、この事実を、そんなことはないと、打ら消すことはできません。生きた証拠ですから。神様の思召しは、どこまで深く厚いか、とても測り知ることができません。この私のために、どんな思召しで、おはからい下されてあるのか、あまりに広く大きいので推測のしようがありません。

 私の信心の出発点といえば、もともと目先の助かりにあつて、目先の行きづまりを何とかして頂きたいばかりに、信心し始めたにすぎません。それがどうでしょう。信心の道を迷わず失わず、続けさせてもらっていましたら、そのおかげで、十三年にして、信心の徳と力がどんなものであるか、ありありと見せて頂けるようになりました。御理解に『さきの世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は信心すれば、だれでも受けることができる。みてるということがない』と、こう御教え下されてありますが、私は、一つ一つ実地におかげを蒙って、おっしゃる通りであることをはっきり分からせて頂き、この御教えに間違いのないことを、かたく信ずるものであります。

 話に聞くと、アメリカの自動車王といわれるフォードという人は、その資産が四十億ドルあるそうです。四十億ドルというお金は、容易ならない大金です。一代で、これだけの資産をなしたというのですから、フォードは、たしかに世界的な大成功者です。このフォードと、私とを比べてみると、比べものにならず、とても足元には寄りつけません。その相違は、提灯(ちょうちん)とつり鐘以上で、お話になりません。 しかし、内面的にみると、そこの違いはどうでしょう。

 私は、教会を持たせてもらってから、残念なことに、もう一つ向こうへゆけない思いがして、もの足りなかったのですが、とにかく信心させてもらってから、途中で一服した日数を加えて、十五年目には思うままのおかげ=Aそれから二年たって言うままのおかげ≠ニいうところに出させて頂き、それからというものは、おかげはわき出る清水のように、いくらくんでもくんでも、くみ切れません。四十億ドルは大金です。手にとって勘定するとなると、ちょっとやそっとでは数え切れません。しかし、数え切るとなれば、いつかはかならず数え切ることができます。限りがないようでも、限りがあります。ところが、私の持っているおかげという財産はどうでしょう。これは、いくら数えても数え切れません。それは、限りがないからです。

 そのわけは、それは無限の供給であって、これでおしまいという限界がないからです。とすると、内面の財産では、フォードと私とでは、どららが金持ちでしょうか。どうやら、私のほうが金持ちらしい。その点で、私は世界屈指の金満家だと、うぬぼれています。これは、信心させて頂いたればこそ蒙むることのできたおかげなのです。信心せてもらうということは、何という有難いことでありましょう。

 日本の歴史をひもといてみますと、世のため人のために役立つ、いろいろの働きを残された方は、みな死後、神様に祀られて、後々の人からあがめられ、うやまわれておリます。私のような愚鈍なものは、そんなことを思ってもかなわぬことですが、この無学愚鈍な私が、いま言ったようなことが言えるだけのおかげを蒙らして頂いたのは、ひとえに信心させて頂いたおかげであり、何という、かたじけないことでございましょう。

 私が、このように、みなさんの前で、何かとお話ししますのは、私のこの身と心とを信心の実験台とし、実際生活で、私が味わわしてもらった信心の真味を、みなさんにも知ってもらい、味わってもらいたいからお話しするのです。私が日夜お取次ぎに骨を折らせてもらっているのも、その願いは、みなさんにこの真味が分かってもらえさえしたら、信心ができるとか、できないとかいうことは間題でなくなり、私と同様に思うままのおかげ∞言うままのおかげ≠ニいうことにして頂けるのであって、何としても、そこまで分かってもらいたいということに、かかっているのであります。

 御教えに『このかたの道は、祈念・祈とうで助かるのではない。話を聞いて助かる道である』とありますが、どうしてこの道は、『話を聞いて助かる道』かと申しますと、この道の教え・話というのは、神様から申せば『神より金光大神に、いつまでも尽きぬおかげを、話にしておくのぞ』とありますように、神様が、金光様を通して、私どもに、いつまでも尽きぬおかげを話にして残して下されたものであり、金光様から申せば『このかたが、天地金乃神よりおかげを受けておる事を話にして聞かすのぞ』で、金光様が、神様から受けられたおかげを、私どもに話にして聞かされるものであります。教え・話は、とりもなおさずおかげそのものですから、お互いが、その教え道り、そのお話通りに、実践しさえすれば、その教え・話そのままのおかげを受けることができるのです。

 そういえば、私が、みなさんにする話もまたそうなのです。私が、生活の上で、実際に神様の御教えを身につけさせてもらって、受けたところのおかげを、話にして聞いて頂いているのです。私としましては、こっちで頭を打っては、これではならぬ、あっちで脚をふみはずしては、あれではならぬといった具合いに、改まりに改まりつつ、一つ一つに、おお、これこれ∞ああ、これだこれだ≠ニ、分からせてもらったおかげを、お話ししているのです。

 私が親しく神様から蒙った、いつまでも尽きぬおかげを、話させてもらっているのです。採るところがあったら採り、役に立つところがあったら役に立て、みなさんの信心の田をこやす肥料として、私以上のおかげを受けて、『いつまでも尽きぬおかげ』『みてるという事がない』という神徳に、ひたって頂きたいものです。

 ところで、お互いはどうでありましょう。御理解を拝読しますと、神様は『このかたが天地金乃神より、おかげを受けておることを、話にして聞かすのぞ。うたご(疑)うて聞かぬものはぜひに及ばず。かわいいものじゃ。また、時を待っておかげを受けるがよし。めいめいに子をもってがってんせよ。親の言うことを聞かぬ子が一番つまらぬ。言うことを聞かぬ子は、親もしかたがあるまいが』とおなげきなされ、氏子がなかなか教え通り素直に言うことを聞かぬことを気にかけられて、『ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな帰ってから、自分のよいようにするのでおかげはなし。神の言うことは道に落としてしまい、わがかってにして神を恨むような者がある。神の一言は、千両の金にも代えられぬ。ありがたく受けて帰れば、みやげは船にも車にも積めぬほどの神徳がある。心のうちを改めることが第一なり。神に一心とは迷いのないことぞ』と、神の言う通り、教えを素直にまもり通して、おかげを受けるようにと、おさとし下さっております。

 金光様は、生神と仰がれる神徳をお受けになりましたが、この生神という神徳は、金光様おひとかただけに限ったものではありません。『このかたのことを神・神というが、このかたばかりではない。ここに参っておる人々がみな神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれるということで、このかたがおかげの受けはじめである。みんなもそのとおりにおかげが受けられるぞ』。お互いも、またそのおかげを受けることができるのです。その点は、金光様と少しもかわりはありません。『おかげは受けどく、受けがち』。おかげは、どれほど受けようが、くんでもくんでも、くみ切れないほどにわいて出る清水のように、かれてなくなるということはありません。なんとしてでも、信心に骨折って、いっときも早く極楽を見つけ、思う存分、尽きぬおかげを受けて頂きたいものであります。

(この「我が信心の歩み」は、2005年9月に掲載されたものです)
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