「我が信心の歩み」 (連載第4回)


[四] やるせない神様の思召し


 もし人が、私に「君、信心が大事か、命が大事か、どちらですか」と尋ねましたら、私は即座に「そりや言うまでもなく、命よりも信心が大事だ」と答えます。なぜ、私が断言できるかと言いますと、それは理屈から言うのではありません。私は体験の上から、理屈ぬきで言い切れるのであります。

 いずれ後ほど話しますが、私は前後二回、医者から死の宣告を受けました。医者と言えば、病気にかけては、医者ほど確かなものはなく頼りになるものはありません。その医者に「もう、だめだ」と言われて見放されたら、病人はどこに立つ瀬がありましょう。すでになすべき手だては全く尽きてしまったのですから、万事休すで、助かるはずがない。それだのに私は助かりました。二回が二回とも助かりました。何によって助かったかと言えば、それは、信心で助かったのであります。私は命のないところを、一回といわず二回までも、信心によって助かったのです。この私が、どうして「命よりも信心が大事だ」」と言わないでおれましょう。

 いや、そればかりではありません。信心し始めてから十三年目に、本当の極楽を見つけさせて頂き、自分ひとりが助かるだけでなく、上は規先祖から下は子々孫々までが助けて頂く、測り知れない神様のおかげを知らされました。それは『氏子が助かってくれぬことには、神が助からんのじゃ。どうぞ信心して、おかげを受けてくれよ』という、やるせない神様の思召しによるものです。この思召しが分かれば分かるほど、この私のために、どんなに神様がご心労下されてあるかということが、うかがわれるようになりまして、私の信心は、「この神様への信心だ」「この神様への信心なら、何で命が惜しかろう」と、いよいよ「命より信心が大事」という決意が固められました。

 世間で命あっての物種≠ニ申します。生きるには、どのように生きたらよいかというこの間題で、みな力一杯努力しております。生きるということは、なかなかなまやさしい問題ではありません。ちょっと見ましても、生きるということのために、草木・鳥獣・虫・魚といわず、生きとし生けるものはみな骨折っております。お互い人間もまたそうです。生きるということは、お互い人間にとって、のっぴきならない大切な問題であり、心にかかる事柄であります。

 ところで、それが骨折っただけのかいがあればよろしいが、どうやら事実は反対で労して功なしに終る方が多いようです。理想と現実とは衡突のし通しです。成功を望みながら失敗を重ねたり、幸福を求めながら不幸におちいったり、安楽を願いながら苦痛を受けたりといった具合いに、食いちがって思うようにならないものです。それはなぜでありましょう。何が、お互いをそうさせるのでしょう。

 金光様は御教えの中で『日に日に生きるが信心なり』とおっしゃって、生きるということが信心だ、真に生きるということは信心をおいてほかにないと、生きるということの肝心かなめのところをお示し下されています。信心こそ、生命を真の生命たらしめ、生活をして真の生活たらしめる推進力であり原動力です。どんなに生きるということに一生懸命に骨折っても、その本当の推進力であり、原動力である信心というものが欠けておりましたら、画竜点晴を欠いたようなもので、労多くして功少なしに終るのは当然です。ですから、命よりも信心が大事であるというのです。

 お互いは、どこまでも、やるせない天地の親神様の思召しをはっきりさせて頂き、その思召しに添いまつるようにしたいものです。御理解第三節に『天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮・寺、氏子の家やしき(宅)、みな神の地所。そのわけ(理)知らず、方角・日柄ばかりみて無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる。このたび、生神金光大神を差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁じょう(昌)いたすこと。氏子ありての神、神ありての氏子。上・下たつようにいたす』とありますのは、いまさらこと新しく言うまでもなく、天地の親神様の思召しを、手短かにはっきりと示されたもので、お互いは、この思召しを受けとらせて頂くことが何よりですが、この御理解の中に見える『氏子ありての神』というのは、どういう意味のこもったお言葉でありましょう。「氏子」というのは、このお互いに対して、氏子とお呼びかけなされたもので、『氏子ありての神』とは、「お前あってのわしじゃ」「お前というものがあっでこその、このわしじゃ」と、こう神様の方から、お互い氏子に仰せられているのです。何と恐れ多く、もったいないことでありましよう。

 実意丁寧な教祖金光様のご信心の真を通して安政六年十月二十一日、教祖様にくだった『立教神伝』を拝しますと、お互い氏子に対する天地の親神様の思召しが、またどんなにやるせないものであるかをうかがうことができます。

 ここでは『立教神伝』の全文についてお話しするのを差し控え、その中の『このかたのよう に、実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間に、なんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎたすけてやってくれ。神も助かり、氏子もたちゆく』という一節にとどめますが、この一くだりを、どう読みとらせて頂いたらよろしいでしょうか。『取次ぎ助けてやってくれ』というのは、何とかしてお互いをお助け下さろうという切ない思いにかりたてられて、「どうぞ取次ぎ助けてやって下さい」と、神様の方から金光様に頭を下げてのお頼みです。『神も助かり、氏子もたちゆく』ということは、氏子が立ち行くことによって神も助かるのであると言われるのです。お互いの苦しみは、お互いだけの苦しみではなく、それはそのまま神様の苦しみです。お互いの悩みは、お互いだけの悩みではなく、それはそのまま神様の悩みなのです。そうであればこそ『神も助かり、氏子もたちゆく』と仰せられたのであり、またの御理解の中で『信心しておかげを受けてくれよ』と、お互いにお頼みになっておられるほどであります。

 神様は、高い壇の上に立って「来れ。助けてやろう、救ってやろう」と、ふんぞり返っている神様と違います。『信心しておかげを受けてくれよ』と、神様の方から、お互いの前にひざをつき、頭を下げて頼んでおられるのです。何という深い深い神様のお情けでありましょう。ですから、神様には、教祖様のお道立てによって、だんだんと氏子が救い助けられて、神様の思召しが世間に通じてまいりますと、『このかた金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。このかた金光大神あって、神は世にでたのである。神からも氏子からも、両方からの恩人は、このかた金光大神である』と、金光大神様の御神徳をほめたたえておられますが、このように神様がお喜びになるのは、金光大神様のお取次ぎによって、次から次へと氏子が助かってゆくにつけて、神様もご安心になるところから、氏子の喜びは神様のお喜びとなり、うれしさのあまり、こういうお言葉をお述べになったのだと察せられます。

 私は、信心を始めてから十三年目に、やっと極楽を見つけるおかげを蒙りましたが、その時、過去十年余り、私をこの境涯(きょうがい)に引っ張り出すために、どんなに神様がご苦労下されたか、『氏子が助かってくれないことには、神が助からないのじゃ。どうぞ信心して、おかげを受けてくれよ』と、ご心労をお重ね下さったことを、しみじみと分からせてもらいました。それゆえ、取次者にならしてもらってからの私も、取次者というものが、さきに言ったような、神様のやるせない思召しを奉じて立つ取次者である限り、信者の方々のお願いに対して、それは信者の一身一家だけのことだと平気に構えて、そのお願いを受けるわけにはゆきません。それは、日々昼夜、お広前にお参りなさる信者の方々が、どうでも助かって下さらないことには、お取次ぎしているこの私が助からないからです。信者の方々が助かって、私が助かるのです。信者の方々が助からなかったら、私は決して助かりません。信者といい、私といっても、信者と私とは、二にして一です。言い換えますと、信者の悩みは私の悩みであり、信者の喜びは私の喜びなのです。私は、取次者という立場に身を置くようになって、いよいよ『氏子が助からねば神が助からない。どうか信心して、おかげを受けてくれよ』と仰せられる神様の思召しが分からせてもらえました。お互いが助からない以上は、神様は、どこまでも悩み続けられるのですから、お互いは、神様の思召しのほどを身に受け取って、自分の信心が向上するように、『信心は日々の改まりが第一じゃ』という御教えを道しるべとして、一つ一つに改まりに改まり、『改まりによって、親先祖より子々孫々に至るまでおかげを蒙る』という御教えの実をあげさせて頂きたいものです。

 私の信者時代、ある友だちの家に行きましたら、
「君、信心やめてくれんか。やめてくれたら、五人や七人の家族、どうでもするから…」
と言ってくれました。
「食べる事なら、心配はかけない。ぼくは万物の霊長だ。虫けらでも、衣食に困るとは言わん。なんで、万物の霊長が衣食に困るようなことがあるのだ。もし困るようなことがあったら、〃万物の霊長が衣食に困っておる〃と鳥に笑われる」
「いや、これは失礼。こんなこというのも、君に信心をやめてもらいたいからだ」
「ご親切有難う。やめてもいいが、一体、君は何を信心してるのか」
「ぼくは何も……」,
「何もって、そんな事ないだろう。内しょにしていないで、君の信心しているものを、言ったらどうです。君の方がましなら、今からでも乗り換えるから」
「本当に何も信心していない」
「そう。それでは理屈にあわんなあ。君が何も信心していないで、人がしている信心を、とやかく批評する資格があるか」
「………」
「君、何も信じないで、世渡りができるだろうか。ぼくが、君の信じているもの、当ててみょうか。三十万円という鼻くそほどのお金だろう。君、ぼくの足どこへ行くか分かるか、分からないだろう。それと同じように、お金はオアシといって足がある。勝手にこの世の中を運動している。だから、このさき十倍になるやら、借金になるやら分かったものではない。よくそんな頼りないものを信じていられることだ。子供も大分大きくなったようだが、いつころっといくか、親の首になわをかけるか、安心させてくれるか、分かったものではない。まさに風前のともしびだ、家内でも、急に阿弥陀さんが恋しくなって、いつあの世に…」
「うーむ」
「それで君、頼りないと思わないのか」
「では、一体、君は何を信心しているのか」
「ぼくが信じているものは、金でもない、名でもない、位でもない、腕でもない。この天地だ」
「天地?」
「そう、ぼくを生み出してくれ、ぼくを生かしてくれている天地だ。この天地のほかに、ぼくには頼るものはないのだ」
「でも、君、天地ってあまりにも大き過ぎるではないか」
「いかに自分は小さくとも、人間は小天地だ。この大きな天地に、この小さな天地をぴったりくっつけたら、それでよい。ぼくはたとえ豪力無双の力士と取り組んでも、決して負けない。ぼくの身体を大黒柱にくくりつけておいたら…。離れたら、小指で突かれても倒れてしまうが……」
「それなら、君の言う風前のともしびの命は、どうしたらよいのか」
「それか。それは、ご用のすむまではおいて頂けますようにと、信心というガラス箱に入れるのだ。そうすれば、少々無常の風が吹いても消える恐れはない。それで、ぼくには、生命よリ信心が大事なのだ。どうして信心がやめられますか。信心はしなくてはならないなどというものではなく、せずにはおれないものなのだ」

 こんなことを言いおいて、この家をあとにしましたが、私としては、ここまで言い切れるだけのおかげを蒙ることができたことを、神様にお礼を申し上げずにはおられませんでした。

(この「我が信心の歩み」は、2005年10月に掲載されたものです)
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