「我が信心の歩み」 (連載第6回)


[六] 何が私を信心させてきたか


 「何が動機で、信心を始めましたか」と、みなさんに尋ねてみましたら、「私は、病気が原因で」とか、「私は災難に出あったのがもとで」とか、「私はある願いを成就したいという思いから」と、いろいろの答えが出てくると思いますが、それは、みな信心を始める契機となったものです。信心のきっかけは何からでもよいのです。これを門に例えて言ってみますと、信心というものは、前の門からでないと入れないとか、後の門でなくてはだめだとかいうような窮屈なものではありません。

 その入信の動機は、病気であろうが、災難であろうが、願望成就のためであろうが、それは、信心の第一歩にすぎず、何でなくてはならないということはありません。その点では、『信心は相縁・機縁』で、信心は何からでもよいのです。ですから、信心の大道は無門であります。要は、御教えに『信心する人の真の神徳を知らぬこと』『信心する人の真の信心なきこと』と戒めてありますように、真の神徳を知らせて頂き、真の信心を体得させて頂くことが大切なのです。

 そこで、私の信心初めですが、私の場合は、病気が入信の動機となりました。

 それは、二十一才の年の暮れのことです。私は生死の境をさまよう大病を患いました。病気のことは、お医者さんにかぎります。医者のすることが、病気に関しては、一番道理にあったことなのですから、患ったら医者を頼むより仕方ありません。ところで、医者に診てもらい、だんだんに快方に向かうのならよいのですが、私の場合は、「加減する、加減する」と言われながら、六ヵ月もたちますと、「もうだめだ」と、氷よりも冷たい死の宣告を下されました。 私としては、医者の「加減する、加減する」という言葉を、だんだんよくなるように加減してくれていることだと信じこみ、自分の命の唯一の頼みの綱とすがりついていたのですから、「もう、だめだ」と言われた時には、まるで六ヵ月間、死ぬ加減をされていたようなものだと腹が立ちました。無論、医者の方では、一日も早くよくなるようにと、尽くせるだけの手を尽くして、薬の加減をしてくれたに相違ないのですが、私としては、最後の土壇場になって「もう、だめだ」と投げ出されたのでは、暗い夜道に提灯の火を吹き消されたのと同然であります。私は極度に衰弱し切っていたから、口には出しませんでしたが、腹の中では「これでは、まるで死ぬ加減をされたようなものだ」と、怒りがこみ上げてきました。

 病気になったら、病気の専門家である医者を、相談相手にするのが当たり前のことですが、そこはお医者さんも神ならぬ身です。どこに、どんな見立て違いや、薬のさじ加減違いがないとも言い切れません。
 信心も妙にこり固まりますと、信心と医薬とを敵(かたき)同士のように思うものがあるところから、お医者さんやその筋では、信心といえば、何か医薬を妨害するもののように、怪しんで見るむきもあるようですが、他教は知らず、少なくともこのお道の信心は、決して医薬と衝突するような、そんな偏狭なものではありません。御理解に『祈れ・くすれ(薬)にすればおかげも早いが、くすれ(薬)・祈れにするからおかげにならぬ』とありますが、この御教えのどこに、医薬排斥、医薬妨害の意味が含まれていますか。医薬といいましても、医薬はどこに生じたものでありましょうか。この天地にです。この天地に生じたものなら、それは天地の神様のものです。ご自身お造りになり、お与えになる医薬を、天地の神様が拒まれるわけはありません。

 お互いの信心は、その祈りのなかに、医薬を包みおさめて、なおあまりあるほど大きいのだと言えましょう。『祈れ・くすれ(薬)』というのは、ここのところを、さし示されたものであります。医者にかかればかかったで、医者の見立て違い、薬のさじ加減の違いがないように祈るのが、信心させてもらっている者の大切な心得であります。

 医者から与えられた「もう、だめだ」という一言は、私にとっては、のっぴきならない死刑の宣告であります。医者があらゆる手を尽くしてくれたあげくの果てですから、どうしようもありません。ただ、死を待つほかはない。しかし、私はどうしても、このままでは死ねません。なぜかと言うと、それは、私には親があるからです。親がまだ生きているからです。「子として、親の思に報いることもできないうちに、親をおいて死ぬとしたら、これ以上の親不孝はない。無論、親を泣かすことになるが、それもたった一ぺんだけ泣かしたら、それでおしまいというのではなく、親が生きている間中あの子がいたら、あの子がいたら≠ニ、一生泣かすことになる。どうしても死なれん。親の恩に報いるまでは、死んでも死にきれん」。私は、私の上に垂れ下がる黒い大きな死の影を感じながら、もだえにもだえました。

 「何としても助からねばならない」。でも医者からは「だめだ」と手放されてしまった私であります。このままでは死を待つよりほかはありません。私は、にっちもさっちもゆかない命の瀬戸際に追いつめられました。「恩に報いず、今死んでは親に対して相済まない。是が非でも助からねばならない」と思ってみても、医者に見放された以上、人間わざでは、とても及びもつかないことです。事ここにいたって、頼るものはと言えば、もう神様よりほかありません。ここで初めて、神様になりとお頼みして、助けて頂くより道はないと、覚悟を決めることになりました。こんな次第で、私は死の一歩手前で、神様に手を合わすことになりましたが、その祈りの重点が「ぜひ助けて頂いて、親の思に報いなければならない」というところにあったのですから、親のおかげで、私は信心の道に入らせてもらうことができたと言っても言い過ぎではありません。

 ここで、話がわき道にそれますが、どうして私が、それほどに親を大切に思うようになったのか、しばらく、私の少年時代の話をせねばなりません。

 私は、少年時代に「恩」ということについて一生忘れることのできない二つの話を聞かされました。それは、十才の頃、尋常小学校の三年生の修身の時間だったと思います。

 昔、陸奥の国に猟師がおりまして、ある日のこと、飼いならした犬を連れて猟に出かけました。が、その日は不猟で、何にも捕れません。仕方がないので、一本の大木の根元に腰掛けて一服しておりました。疲れが出てきたのか、眠くてたまらなくなり、コックりコックりと居眠りをし始めました。

 ところが、いつもなら、じっとおとなしく、主人のかたわらで、うずくまっでいる犬なのに、この日にかぎって、どうしたわけか、やかましくほえ続けて、猟師を眠らせません。しまいには、猟師の履いているわらじをくわえて、眠っている主人を呼び起こそうとするのです。眠くて仕方がない猟師は、犬をしかりつけましたが、犬はしずまりません。一層激しくなきたてるので、猟師は腹を立て、大声で「この畜生めがっ」と叫びながら、腰の山刀を抜き打ちに、犬に切りつけました。その瞬間、前にコロりと落ちるはずの犬の首が、火の玉のようにパッと宙に舞い上がりました。猟師は、はっと思って首の行方に目をやると、ちょうど真上――大木の一番枝から、今にも猟師をのみこもうと首をのばして来た大蛇ののどぶえに、犬の首がかぶりついたのです。それで初めて猟師は、犬が自分の危急を救ってくれたことが分かり、難なく大蛇を打ちとめました。猟師にとって、犬は命の救い主だったのです。「本当にすまないことをした。犬は打ち首となっても、宙に舞い上がって大蛇ののどぶえにかみつき、この自分を助けてくれた。それにしても自分は、なんと残酷なことをしたのだろう」と、悔恨の情やみがたく、この猟師は、それから頭をまるめて仏道に入り、犬の供養のために、後半生をささげたという話です。

 次に、も一つ、こんな話を聞かされました。
 昔、ある国では、死刑にきまった囚人は、ライオンに食わすという法律があったそうですがそれはある時のことでありました。一人の死刑囚をライオンの檻(おり)の中に放り込みますと、いつもなら、たちまちライオンは、牙をならして飛びつき、かぶりついて食ってしまうのに、何を思ったのか、そのライオンは、じっとその男を見つめるばかりで、一向にかみつこうとしません。それに、晩になるとライオンは、その男を抱くようにして一緒に寝ています。明くる日、ライオンに食物を与えると、それを男にも与えているのです。ライオンの檻に放りこまれても、ライオンに食われないで一週間たてば、罪人は放免になることになっていました。日がたつに従って、ライオンはその男を、まるで主人同様にいたわりますので、役人はびっくりしました。一週間たち、その男が放免になってから、役人が「どうも不思議なことだ。これまでの経験では、いつでも、檻へ放りこんだら最後、ライオンは一ぺんに飛びかかって食べてしまうのに、おまえは食われないばかりか、ライオンは、おまえを主人のようにいたわっていた。これは、一体どういうわけだ」と尋ねました。

 すると、その男が言いました。「あのライオンを見て下さい。額に傷あとがありますが、あれは、この私が助けた傷あとなんです。ある日のことでした。山道を歩いていると、大変なうめき声が聞こえますので、その声のする方へ行ってみますと、一ぴきの手負いのライオンがうなっていたのでした。あまりかわいそうなので、私は見るに見かねて、恐ろしいことも忘れて、持ち合わせの傷薬をぬってやり、それからは毎日そこへ行っては、薬をぬりかえてやりました。傷が治るまでに、あとさき三十日は続いたと思います。最後の日に行ってみると、ライオンはどこへ行ってしまったのか、姿かたちも見せません。それでやっぱり畜生というものは、と思ったことですが、こんど捕えられてライオンの檻に放り込まれてみると、何とそのライオンが、まぎれもなくあの時のライオンであって、あの時、私がほどこした親切のお返しをしてくれたのでしょう」ということでした。

 小学校の修身の時間に聞いた話というのは、このような話ですが、この話を聞いた時、私の小さな胸は、どんなに感動させられたことでしょう。童話に描かれた世界をそのまま現実の世界として、まともに受け取る十才の子供にすぎないのですから、この話のような事実が、実際にあったかどうか、それを疑う気持ちなど、さらさら持っていなかったことは言うまでもありません。

 しかし、それはそれとして「たとえ、犬のような小さな動物でも、人を食うような猛獣でも、いったん恩を受けたら、ちゃんと恩を知っています。人間は万物の霊長です。万物の霊長である人間に生まれて、恩を受けて恩を知らないとしたら、人間とは言えません。鳥獣にひとしい、いや、鳥獣にも劣る」という教えを聞いてからは、子供心にも、親の恩の言い知れない有難さを思わせてもらい、「子として、親からしかられるようでは、親の恩を知っているとは言えない。何でも親にしかられないよう、親に心配をかけないように」と心がけ、「大恩ある親の恩に報いることにより、人間らしい人間として、人間の仲間入りしなければならない」と、堅く心に期してきたのです。ところが、その志がまだとげられていないうちに、病気になってしまい、医者から死を宣告されたのですから、私はいても立ってもおられません。「私はまだ死ねません。しなくてはならない仕事が残っており、果たさねばならない役前が残っております。どうぞ助けて頂きますように」と、一心に神様にお願いせずにはおれませんでした。

 ある時、ある方から、「先生、あなたは、どうしてお道のおかげを蒙られるようになられたのですか」と尋ねられましたので、「親のおかげで」と答えますと、それが話の糸口になって「では先生のご両親は、たいそうご信心に熱心でおありになったんですね」「いや、親は信心は知りませんでした。私が信心するようになってから、信心するようになったんです」「すると先生、先ほど、親のおかげでと言われましたが、実は、ご両親の方があなたのおかげで、と言わなければならないのと違いますか」「いや、それは違います。私の信心は、親のために祈り、親のために信心さして頂いておかげを蒙ったのですから、親のおかげと言わなければなりません」と、話し合ったことですが、二十一才の年(明治廿三年)の大患がきっかけになり、信心の道に足を踏み入れたのですが、十才の時に聞いた報恩の話で、親の大恩に感じ入ったのが、そもそもの根本動因であるとしますと、私を信心するようにしてくれたのは親ですから、親のおかげと言うより、言いようがないのです。


(この「我が信心の歩み」は、2005年12月に掲載されたものです)
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