「我が信心の歩み」 (連載第9回)


[九] 主人に仕えた三年間


 私の二十一才の年の暮れの大患の話が、きっかけになって、あれやこれやと病気についての思い出話をしましたが、二十一の年といえば、私が、家の都合で、奉公するようになった年でありました。

 ここで話は、私の奉公生活にうつります。その奉公先の主人というのは、私の全然知らない人でした。私の友人が、紹介してくれたのです。その時、私が主人から受けた第一印象を遠慮なく言いますと、この人の顔は、私のきらいな顔だという一言に尽きます。なぜかと言いますと、私は、これまでに随分たくさんの人を相手に、商売をしてきましたが、この主人のような顔つきをした人に、一人といわず二人までも、ひどい目にあわされていましたので、こんな顔をした人は、こんな心を持っていると、はっきりと読みとれたからです。「しまった」と思いましたが、後の祭りでした。自分の好ききらいを言って、折角、世話をしてくれた友人の厚意を無にすることもできず、私は、その主人に、主人として仕えようと覚悟を決めました。奉公するからには、何もかも忘れて主人のために尽くすのが、当然のことです。奉公して、自分のことを顧みるようなことでは、奉公しているとは言えません。主人のために、一生懸命努力するのが、本当の奉公です。どうでもこうでも、奉公らしい奉公をして、主人の家を富まさなければなりません。私はそんな決心でしたが、日がたつにしたがって、やはり、主人は、私の第一印象どおりの正体を、さらけ出してきました。それでも、いったん、主人と仰いだ以上は、私の奉公精神は微動だもしませんでした。

 二、三の友人が、私の行く末を心配してくれました。「君、奉公やめたらどうだ。うまい口車に乗せられていたら、しまいに、ひどい目にあわされるぞ。まず、一生飼い殺しが関の山で、死ぬるまで、頭があがるまい。足もとの明るいうちに、見切りをつけた方が賢いよ」と、親切に注意してくれました。しかし、たとえわら人形のような主人でも、主人は主人です。いかに人格の低い主人であっても、主人として仕えている人の悪口を言われては、気持ちがよくありません。「飼い殺しになるなら、飼い殺しになってもいい。主人の出方がどんなであろうとも、私の知ったことではない。自分は、自分の奉公が本当の奉公になり切れるように、心掛けるだけのことです」。私は初めから、損得かまわず、主人に身を投げ出してかかっています。どんなに主人が悪く言われても、私の心は動きませんでした。

 その頃、主人の懐具合いは、どうであったかと言いますと、火の車でした。それで、何としても、主人の店を富ますことが急務でした。この責務をなしとげて、奉公人らしい奉公の実をあげなければなりませんので、一方では、神様一心にお願い申し、他方では商売大事と働きました。私は、ほかの奉公人よりも、朝は一時間早く起き、夜は一時間遅く寝て、その時間を、教会のお参りに当てて、主人の家が立ち行きますようにと、神様にお願いしつづけました。ところが、主人はと言いますと、一向に、本気で商売しようとしません。調子がよくなって、多少お金がたまると、それを財布に入れて、散財に行くか、堂島の米相場へ持って行ってしまうのです。そのなかでも、米相場が大変好きでした。お茶屋遊びの方は、お願いしているうちにやみましたが、堂島の方はなおりませんでした。

 話しついでに恥を言いますが朱に交われば赤くなる≠ニ言われますように、私も、主人の相場好きにかぶれて、いつしか相場を覚え、相場に手を出すようになったことがあります。ただ主人に忠実に仕えてさえおれば、五、六年たてば、別にこれというまとまった資本がなくても、その人間に対する信用という無形の資本が役に立って、商売ができていくようになるのです。何もがりがり根性を出して、ぬれ手で粟(あわ)のつかみ取り式の、一獲千金の夢を見なくてもよろしいのですが、そこが人間のあさはかさです。ひと山あてて商売の資本を作りたくてたまらなくなり、あせって、かえって自分を苦境に追いやる結果になってしまうのだということが、分からなくなってしまいました。

 御教えに『物ごと(毎)に、時節を待たず、苦をすること』とありますが、私の信心させて頂いた頃は、教会へお参りしても、今日のように、教えてもらえませんでした。御神訓は、桐の箱におさめて神だなに祀ってあり、ごく大切なものとして、容易に拝見できなかったものです。説教といっても、その頃の説教は、折角、聞かせてもらっても、木に竹を接いだような説教でありました。ですから、今日の信者さんと比べたら、その頃の信者は、お話にならないほど不仕合わせでした。私にしても、教えが十分に分かっておりませんから、つい、主人の相場熱が、私にうつってしまいました。何としても神様にお願い申して、相場でおかげを蒙り、ひとりで商売のできる資本を獲得させて頂こうという気になりました。土用の炎天下で百姓さんが四つんばいになって、田の草取りをしているのを見ますと、何を一生懸命になってやっているのだろう。どんなにあくせくしてみても、十一月の末にならなくては、取り入れの時節は来わしないのにとも思われるのですが、しかし、植えつけさえしたらそれでよい、大きくなるにきまっているといって、手入れもせず草取りもせずに、放っておいたらどうでしょう。植えつけがすんだら、それからは手入れをする、草取りをするといった具合いに、追うべき順序をふんで、時節を待つということが肝心でありますが、とかくお互いは、なすべきこともしないで、ぬれ手で粟のつかみ取りを望むのですから、始末におえません。世間でぬれ手で粟のつかみ取り≠ニ言うが、まあ一ぺんつかんでみるとよろしい。ぬれ手でつかんだ粟は、手がかわくと、みなパラパラと落ちてしまいます。狐狸ならしらんこと、本当の神様なら、そんな具合いに、骨も折らずにおかげの蒙れるわけがありません。本当に助かろうと思えば、とことん骨を折らせて頂くのです。そこにいい知れない楽しみがあるのです。

 米相場に手を出したというのは、私の信心が幼稚園時代であった頃の話ですから、お笑い草として、聞いて頂きたいのですが、一生懸命にお祈りしていると、どうやら相場の節(ふし)を知らせてもらえるように思えてきました。それで、これがお知らせだと思うところに従って、相場をするようになりました。今日は五十丁上がる、明日は何丁下がると、どうしてそんなことが分かるかと言いますと、御神前の御神鏡が、一晩のうちにゴロッと引っくりかえっているとします。その御神鏡は、木の台にはまっていますから、その跡がついています。それによって、「ははん、これなら五十丁上がりだ」と判断させてもらうのです。頂いてきた御神米を、神だなにもたせかけておく、それが尻あがりになって宙に浮いているとします。「ははあ、この分なら、二十五丁下がって二十丁上がるな」といったようなわけです。ところが、不思議に、相場がそのように動くのですから、私とすれば、それをお知らせと思うのも、無理からぬことでした。

 それなら、私は、私の思うように、相場でもうけたかといいますと、決してもうかりませんでした。二へんまではもうかっても、三べん目に無くなるか、五へんまでは当たっても、六ぺん目には、すっかり吐き出すようなことになっていました。

 たしか、それは明治二十五年から二十六年のことでした。その時の私の売りの思惑(おもわく)が当たったら、たちまち六、七千円の札束が手にころがりこみそれで独立するだけの営業資金ができたならば、その時限りで、相場をやめるつもりで、それを楽しみにしていました。ところが、思いがけなく月見の晩に襲った大しけで、私の思惑の山は、たった二時間ばかりの間に、目も当てられないほど無惨に吹き飛ばされて、台なしになってしまいました。神様から知らせて頂いて、そのとおりにして、もうからないという法はないはずです。もうけさせてくれないのなら、知らせてくれない方がいいのです。私は、損して、カッとなりました。それで、私は白神先生に談じ込みました。何も分からないで、ただ目先のおかげ一つで、盲滅法やっきになっていた時のことですから、自分には、どこまでも間違いはないような顔をして、こんな無茶なことがよく言えたものでした。

 その時、先生は、こう言って教えて下さいました。「信者が、あんた一人だけなら、神様も、あんたの言うようにして下さるかもしれませんが、信者はあんた一人だけではなく、ほかにもたくさんあります。もしも、あんたの言われるようなおかげを蒙ったら、信者は、誰もかもみな、先を争って相場師になってしまいます。神様のお喜びは、決してそんなところにはないと思います。この道は、何をさせてもらってもおかげの蒙れる道です。何としても、善い手本になるようなおかげを蒙らなければなりません。折角、あなたがお願いなさるから、神様も教えて下さるのだと思いますが、そういうお願いは、神様を困らせようとしているようなものです」「なるほど、そうだったのですか」と分かりますと、私は「いらんことをお願いして、神様につまらないお手数をかけまして、相済みませんでした」と、神様にお詑びして、それ以来、ぷっつりと相場から手を引きました。北浜(株式市場)とか堂島(米相場)という場所は、人の身代を食いつぶして立っているところです。それをそうと知りながら、いくらお金が欲しいからといって、何をさせて頂いてもおかげの蒙れる有難い道に入らせて頂いていて、それに気がつかなかったのは、まことに相済まない次第でした。

 話がわきにそれましたが、店の主人は、私が一生懸命にお願いして折角おかげを蒙りましても、少しも商売に身を入れないで、堂島に持って行くか、お茶屋に運ぶかして、使い果たしてしまっては、主人の家の運命は、破産の一途をたどるよりほかありません。私が、こんな主人を、主人として持たなければならなかったのは、あるいは私の運命であったかもしれません。そしてまた、この主人の家を生かして栄えさせなければならないのが、私の運命だったのでしょう。そう思って、私は精根のつづく限り、主人の家のために働き通しました。が、三年目には、とうとう、どうしようもない窮地に追い込まれ、主人が家から姿を隠すようなことになってしまったのです。

 主人の家がいけなくなったからといって、冷たい目で「はい、さようなら」と暇をとり、そのつぶれるのを、知らん顔をして黙って見ているわけにはいきません。約二ヵ月ばかりして、主人が帰って来ましたので「何も商売の矢敗は、商人として恥じる必要はありません。転んだら起きるまでです。私は、年も若いし気力もあります。あなたが糠(ぬか)買いするなら、明日とはいわず今日からでも、私も一緒に糠買いをしましょう。あなたと共にすることなら、灰買い(当時の最低の商売)してもいといません。もう一度、立ち上がって下さい」と、いろいろ力づけて、主人が思い直してくれるよう骨折りましたが、約半月ばかりしてから、「何を考えてみても、よい考えがつかず、手も足も出ないから、あきらめてもらいたい。あんたはあんたで、あんたの立ち行く方針を立ててもらいたい」と言うのが、主人の最後の返事でした。それで、私は残念ながら、うしろ髪をひかれる思いで、暇を取らねばならないことになってしまいました。

(この「我が信心の歩み」は、2006年3月に掲載されたものです)
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