「我が信心の歩み」 (連載第12回)


[十二]  信心途上におけるおためし


 ここで、話を、私の商売にもどします。
 すべて、ものごとに当たって、自分の出発点を忘れないということが大事です。何をするにも、その最初の出発点が、鎖でいえば、第一のかん(鐶)であり、それにつづく自分のあらゆる営みは、第二、第三とつづく、一つ一つのかんとなってつながってゆくものです。ですから、いつも、自分の出発点が、どんな出発点であったかということを忘れないで、羽目をはずさないようにしたら、自分の進むべき方向を間違えることもなく、骨折るだけの成果が上がってきます。しかし、何でも思うようにすらすらと事がはかどってゆくかといいますと、曲折があり、浮き沈みがあって、また時には、行きづまってしまって、どうにもならないように思われることがありますから、その場にのぞんで、あわててしまわないように心掛けなければなりません。

 私は商売初めに、鯣(するめ)を持ち歩いて、二十四銭三厘をもうけさせて頂いたのを皮切りに、日に日に商売のおかげを蒙り、至極順調にいっておりましたが、どうしたものか、三カ月ばかりたちますと、ばったり商売がとまってしまいました。かんかん照りの土用のある日のことでした。薄着一枚でも、汗が吹いて出る炎天下に、四貫目(十五kg)ほどある荷を持ち歩て、四百軒ばかりの得意先を、一軒一軒回ってみて、さっぱり売れないとなったら、情けなくて泣きたくなってきます。身体中べとべとした糊(のり)のような汗が流れ、その上、おなかがすいてきて、荷物が重たくなり、まったくやり切れない思いがしました。

 いらいらして橋のたもとにさしかかった時でしたが、いっそのこと、荷物を一思いに、橋の欄干から、川の中に放り込んでしまおうかという気にさえなりました。その荷物は金高にしますと、たかだか二十八円そこそこのものですが、何でも買ってもらおうと、気張って持ち歩いている品物を、行く先々で「いりません」「いりません」と言われて、締め出しを食わされるのですから気が腐ってしまいます。しかし、むざむざ川の中に放り込んでしまうような無茶もできないと思い直して、家まで持って帰ったものの、家に帰ると、私の肝しゃく玉が破裂して、荷物を土間にたたきつけました。腹が立って腹が立ってたまりません。そうでもしないことには、どうしても腹の虫がおさまらなかったのでした。

 何事によらず、思うようにいっておりますと、「今日も有難う存じます」というお礼が言えますが、思うようにいかない時に、心から「今日も有難う存じます」というお礼が言えるでしょうか。商売していても、とっとと、品物の売れ足が早い時には、お願いにも力が入り、お礼にも真実がこもりますが、さっぱり売れゆきが止まったとなると、口では神様にお願いしていても、心の中はというと、物足りない思いで一杯になり、言いようもなく不愉快になって、その願いは真の願いにならないで、うそかごまかしになってしまいます。お願いがそんなお願いだから、お礼も真のお礼になってきません。お互いの信心は、大抵この程度の信心です。それで、信心ができているの、信心になっているのというのですから、厚かましいにもほどがあります。まことに口はばったいことです。この日の私が、そうでありました。いつもなら、商売をすませて家に帰りますと、すぐに神様にお礼を申し上げるのですが、はらわたが煮えくりかえらんばかりでした。むしゃくしゃした気分で、神様に手を合わす心にもなれません。

  「今日は、そうやすやすお礼は言えない」。私は、乱れた心が落ち着くのを待ちました。放り込まれた石で、しぶきをあげて波紋を描いた池の水も、時がたてば、波がしずまり、鏡のようなもとの静けさに返ります。私は心を押し静めて、じっと考えました。ああかこうかと、考えあぐねていた私の心に、ぱっとひらめいたものは何であったでしょう。それはおためし=B「はてな、これが、おためしというものであろう」。

 ふと、こう思いあたりますと、その瞬間に、私の心持ちはがらっと一転してしまいました。その様子は、今の今まで大日照りで、枯れそうになってしおれていた草木が、にわかにザァッとやってきた恵みの雨で、たちまち生気を取りもどし、元気づいたようでした。「おためしであるとすると、こんなことぐらいで、ぐったりしてしまって、信心の大黒柱をへし折ってなるもんか。自分はこのおためし≠信心の修行と思い、辛抱しなければならない」。こう考えつくと、ああかこうかと、今まで思いあぐねていた心は消え矢せて、心の底から神様に「今日は結構な修行をさせて頂きまして、有難うございました」と、お礼を申し上げることができました。翌日も、売れないことは前日の通りでした。しかし、おためしときまったら、それを受けとる私の心構えが違います。学校は、学期ごと、学年ごとに試験があって、最後に卒業の免状が出ます。信心という学校では、おためし≠ェ信心の進級試験です。このおためしに通れば、信心も一段の進歩をとげるのです。

 こう腹が決まると、いくら売れなくても、鼻歌ものです。売れ足が止まっていても、一向気にしません。お得意まわりをすませて家に帰ると、神様に「今日も結構な修行をさせて頂きまして、有難うございます」と、お礼を申し上げました。私の腹は「こんな修行なら、三年以上となると、荷が勝ちすぎて辛抱できないようになるかもしれないが、三年ぐらいなら辛抱できる」と、びくともしませんでした。そして「これがおためしである」と思うようになってからは、かえって、「このおためしがいつまでつづくか」ということに、興味を持つようになりました。しかし、前後四日ばかりでおしまいになり、五日目から、少しずつ商売ができるようになり、売上げも日増しに上がり、一日に一円以上、二円ぐらいの純益が、楽に頂けるようになりました。

 信心と家業について、それがどのようなつながりを持っているか、それをソロバンで、はっきり教えてもらったと言いますと、話が変に聞こえるかも知れませんが、実際、どのような信心振りであるかによって、必ずソロバンが違ってくるものです。売上げが多くなるには、その前に必ずおためしがありました。商売がかがんではのび、かがんではのびてゆきました。御教えの中に『神は向こう倍カの徳を授ける』とありますが、その発展途上に現れたおためしに合格することによって、商売の上に『向こう倍力の徳』を蒙り、同時に信心のふらつかない稽古をさせて頂きました。

 お釈迎さんには成仏得道のまえに、降魔というくだりがあり、キリストには四十日間の荒野の修行中に、悪魔が出てきたということを聞いていますが、これは、信心の上でのおためしのことだろうと思います。私は、何も訳分からずに、商売の上に変わったことが起こりますと、それを自分の信心のおためし≠ニ受け取って、信心向上のための修行とさせて頂きました。御教えに『このかたの行は、水や火の行ではない。家業の業ぞ』とありますように、日常生活の上に起こってくる何事でも、信心成長の糧(かて)とさせてもらわなくてはなりません。

(この「我が信心の歩み」は、2006年6月に掲載されたものです)
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