「我が信心の歩み」 (連載第14回)


[十四]   頼母子に頼ってつまづく(2)


みなさんは恵まれて、人の世の昼よりご存知ないでしょうが、この世の世波りに、昼と夜とがあることを知り、この夜の経験をお持ちの方でしたら、どんなにこの夜が苦しいものか、私の言っていることが分かってもらえるとおもいます。

この間も、ある信者さんが、ある人 のことを「あんな悪い人はない」と言いますから、「そんなにぼろくそに言いなさんな。あの人だって、何も好んで、人に不義理をかけ、 悪もの汲いされようとは思っていません。恵まれないから,悪人になるのです。あんたは、恵まれているから、そんなことが言えるので、 誰でも一つつまずくと、悪人になりたくはなくても、悪人になってくるのです。

恵まれていたら、それを有難く思って、信心に油断しない ように」と、言ったことですが、人の世の夜を知った者であれば、自分の経験を振り返ってみて、こんな同情心もわいてくるものです。

 私は、信者の中で、頼母子に入るという人に「何のために入るのですか」「何かの入り用があるといけないと思うので」「そう、最初か らそういうつもりなら入りなさい。しかし、それは神様にどうぞ、この金の要ることができますようにと、予期しないことで金の出る ことを願っているようなものだ」「そんなこと、誰がお願いするものですか」「でも、それと同じことだ。『悪いことをいうて待つなよ。さきを楽しめ』と言うことは、悪いことは待たなくても出てくる。待っていたらたまらんぞ、という御教えです。

 頼母子に楽しみに入る というのならいいが、もしも不意の入り用のためにというのなら、やめておきなさい」と言って、とめますが、それは、私が頼母子という鬼の爪にひっかかれて、さんざんひどい目にあい、タノモシでなくて、クノモシであるということを、骨身にしみて知っているから であります。
 
ところで、そのように苦しみながら、信心の方はどうなっていたでありましょう。信心が、本当の信心になっていないのですから、お願 いが、本当のお願いになるはずがありません。ですから、おかげの蒙れないのも当然です。私はどっちを向いても顔向けのできないほど借 金して、どうにも動きのつかないことになっているのです。こんな行きづまりにあっているのですから、いやでもおうでも、真剣にお願い できそうなものですが、まだまだ本当のお願いになってはきません。「どうぞ商売繁盛のおかげ、お金のお繰り合せのおかげを下さいまし て、「月末都合よく支払いできますように」。

月の一日から帳締めの二十八日まで、朝晩一心に祈っているといいますと、すこぶる人聞き がよろしいのですが、帳締めがすむと「支払いがいくらいくらある。掛けが六分集まって、いくらいくらの不足。七分集まって、いくらい くらの不足」という胸算用を繰り返します。やり繰りがつかないことがはっきりしますと、「こら、困ったなあ」というため息が出て、「 まあ、神様にお願いするより付方がない」となります。お願いといても、「まあ」づきのお願いです。「どうぞ、掛けが集まりますように 、支払いできますように」と、お願いしていても、一筋の祈りになってきません。

 「生神金光大神様、天地金乃神様、どうぞ節季の支払い、掛けが集まりまして、支払いできますように……こうつと……六分集まっていくら足らん、八分集まっていくら足らん、こら困ったこと だ、難儀なことだ……おっとしょ、神様の前でこんなこと思ってはならん……生神金光大神様、天地金乃神様、どうぞ掛けが集まりまして 、支払いができますように……でも足らんとすると、どこへ行っても借りるところはなし……あっ、またこんなこと思って……神様どうぞ ……思うように掛けが集まってくれるといいが……」。何べん繰り返しても、同じところへ出てきます。胴腰が座っていませんから、ご祈 念がご祈念になりません。御教えに『心配する心で信心をせよ』とありますが、いざ実際となると、この御教えどおりにゆきかねます。

そ れはそのはずです。心配するか信心するか、どちらか一つにならなければならないのに、心配しながら信心もしようというのですから、さばきのつかんことになるのです。
 本当に信じ込んだら、心配はなくなるはずです。心配という暗い影が、ほんのわずかでも、ちらつくわけがないのですが、なかなかお互 いの信心は、そこまでゆきません。信心しているといっても、心配というものは、追っても追ってもまたたかるご飯の上の蝿のように、舞 いもどってきます。いくら心配したところで何の役にも立たないと、息の根をとめたつもりでいても、心配はそのすぐあとから息を吹き返 すので始末におえません。それも病気なら、患っている自分一人だけが、じっと辛抱すればすみますので比較的楽ですが、お金の間題だと そうはゆきません。どうしようもないのだから、ままよと、こちらが辛抱する気でも、先方がこちら同様に、ああそうかといって辛抱して くれません。

 病気だといくら頭をひねってみたところで、どうにもならないと、決まりが付きますが、お金となると、頭をさかさまに振っ てみたところが、何も出ないような場合でも、何とか金策がつき、工面がつくような幻を描くので、どうもあきらめがつきにくいものです 。よし金策ができても、いつまでもそが続くはずがなく、借りたら借りたで返さなければなりません。私は゛金は借りるな貸すな″と言っていますが、人間というものは、借金する力は強いが、返金するカは弱いものです。金を返す力があ るくらいなら、初めから、金を借りる必要がありません。ですから、金を借りたとなると、幸運に恵まれたら格別のこと、めったに返せる ものではありません。それで、お金のこととなりますと『心配する心で信心をせよ』ということが、むずかしくなるのです。「どうぞ神様 」とご祈念しながら「さてどうしよ」となるのです。事実、この教えがはっきりと身につくまでに、私は十三年かかっています。

  一体、お互いは、道理の上でよく分かっていることでも、さて、実際の上でとなると、なかなか、そういうようにゆかないもので、それまで、自分が人に言って聞かせたことを、人から言って聞かせてもらわなければならないような、頼りないものです。言うことはやさしい が、行うことはむずかしい。私は商売初めに、金で苦しみながら、お願いというと、口先だけで、心の底からの、本当のお願いにはならなかったものです。ご参考までに、聞いてもらった次第であります。

 ここで、話を本筋に返します。資本なしで始めた商売です。そのもとを忘れないで、身のほどをわきまえてゆけばいいのに、甲斐性もな いのに荷の勝った無理をしたものですから、金づまりに苦しむのは当然です。そこで、頼母子に頼ることになったが、それが、つまづきに なりました。期間でいうと、二年ほどでありますが、そのうちに何とかなるだろうと、はかない期待を抱いて過ごしたのですから、分から ず屋にもほどがあります。私ほど分からず屋はいないというのは、こういうところを言うのです。 二年ほど、頼母子で苦しみぬいたあげくの果てに、やっと神様の前で手を組んで、思案をこらすのですから、何という愚図でしょう。

 そ こで、私は、どうしても思い直さなければならないところは思い直し、考え直さなければならないところは考え直さねばなりません。その 時、私の心の鏡にどんな自分の姿を見い出したでしょう。そこに映し出されたものは、頼母子の前に、うやうやしく手をついて、一生懸命 に拝んでいる私の姿でありました。私は自分の間違っていたことに気がつきました。

 「自分は今日まで、朝タ、神様の前に座って神様を拝んでいた。しかし、それは、ただ形の上だけのことで、心の底からではない。今の 自分は、行きづまってしまって、どうにも思案がつかないので、頼母子はタノモシではなく、クノモシだなんて、頼母子を足手まといのよ うに言っているものの、はじめ頼母子に手を出した時の心持ちは、どんなであったでしょう。今では頼母子を疫病神扱いにしているが、あ の時は、頼母子を大明神様扱いにして、神様にどんなにお願いしても、思うようなおかげを下さらないので、私は、あなたに頼るより も、すぐご利益にあずかれる頼母子に頼らしてもらいますと、頼母子を拝んでいたのだ。自分は、神様よりも、頼母子の方を神様にしていた。これでは、神様に手を合わせて拝んだからといって、ただ形の上だけの拝礼にすぎないのだ、しかも、そんなことで二年も過ごし てしまった。

 知らなかったうちはとにかく、そうと気づかせて頂いたら、これは放ってはおけない」。こう思い当たると、私はお詫びをし ないではおられませんでした。
 「神様、何とも申しわけこざいません。私は今日まで、あなたを拝んでいるつもりで、頼母子を拝んでいました。
あなたをないがしろに して、実は、頼母子を拝んでいたのですから、あなたのおかげを、断っていたわけでございます。おかげの蒙れないのは当然です。あなた を信じ、あなたを頼るべき身が、急場のおかげが蒙れないという浅はかな考えから、頼母子を拝んだ心得違いを、どうぞお許し下さい。二 度とこんな心得違いはいたしません。もうこの上は、私に、頼母子を掛ける力がございません。どうぞ、あなたの手で掛けて下さいますよ うに、お願い申し上げます」。 私は、心得違いをお詑びすると同時に、頼母子の掛け金を、滞りなく払わせて頂けますようにと、神様にお願いしました。

 私は二年ほど というもの、さんざん苦しんで、この上は神様にお願いして、神様の手で掛けて頂くよりほかに方法がなかったのです。
それから、二カ月は断りを続けましたが、三カ月目からは、頼母子屋が集金に来るまでには、ちゃんと掛け金の金が手元にあるようになり、その後は、一度も断りを言わずに、神様のおかげで、掛けさせて頂くことができるようになりました。改まれば改まっただけのおかげは 、てき面であります。たしかに、神様が掛けて下さいます。心配しなくても、神様がちゃんと掛けて下さるのには、おのずから頭が下がり ました。これで、私は、落ち込んだ頼母子の魔手からのがれて、ついに破産のうき目を見ずにすみました。
(この「我が信心の歩み」は、2006年8月に掲載されたものです)
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