「我が信心の歩み」 (連載第15回)


[十六]  お参りをソロバンではじく(2)


私は、口から先に生まれたような人間で、なんにも本当に分からないくせに、何もかも分かったように言いたくてならない性分でした。ですから、信心ということでも、信心というものは、そうむずかしいものではない。つまり、善いことをして、悪いことをしなければ、それでいいのだというぐらいに考えていました。こんな考えですから、教えでも、一度聞いたらそれで十分だ。何度も聞かなくても分かっていると思っていたのです。

ですから、教会へ参って、先生から「お参りしなさい」と親切に言われても、馬耳東風で、あまりお参りしませんでした。『神様は天地に満ちわたってござる』と教えられています。また、教会にお祀りしてある神様も、家に祀ってある神様も、神様にかわりはない。家の神様を拝んでおいたら、それで事は足りる。大事なことといったら、どこからでも、『隔てなく祈れ』にある……と、分かったような顔をして、先生からお参りの必要なことを聞かされましても、ただ、口先で「ありがとうございます」と言うだけで、心の中では「あの先生、どうもおかしい。先生が間違っている」と思っていました。

 ちょうど、その時分のことです。母親と子供が病気しました。その時の自分はといいますと、家にじっとしておれませんので、せっせとお参りします。そこで、そんなことがたび重なると、考えないでおれなくなりました。理屈からすれば、神様はどこにでもござるのだから、特に、教会にお参りする必要はなく、家から拝んでおけば、それでいいわけです。

 しかし、子供が病気して、熱が三十九度、四十度にもなると、どうして朝に晩にお参りするのでしょうか。何でもかんでも、おかげを頂かねばならない、どうでもこうでも、おかげを蒙らねばならないというので、理屈ぬきにして足を運ぶのです。そこを考えてみますと、これまでの私の考え方は、あまりにも理屈に走りすぎていたことが、少々分かってきました。しかし、それだけではまだまだ納得できません。それで一つ、お参りをソロバンで、はじいてみようということになってきました。

 私は、さきにお話ししたように、信心しない前から理屈っぽいたちでした。信心してから後も、この性分は、なかなか直りませんでした。ですから、いくら有難い話を聞いても、話だけでは承知できません。私を納得させるには、百の理論でなくて、一つの実証でした。教えを聞きますと、どの教えも間違いなく助けて下さるということになっています。しかし、それは、他の神様や仏様に参っても、みな助けてやろう、救ってやろうということになっているのですから、教会でお話を聞きましても、何か知らんうまく口車にのせられて、だまされているのではないかというような感じがして、どうしてもその教えが、信者の人々の実際生活の上に、どんな効果を現しているか、それを調べあげて、実際の証拠をつかまえないことには承知できなかったのです。

 それで、私は信心友達を戸別訪問して、その証拠をつかむのに骨折りました。教会へ参って出会い、わずかな時間で話し合うくらいでは、その人の人柄は分かりません。教会では、みんないい人に見えます。それならそれで、みな一様におかげが蒙れそうなものですが、そうなっていません。そこのところが、どうも私にははっきりしません。それで、信心友達を戸別訪問して、これとこれとがこうなっているから、それでこういう結果になっているのだということを、事実の上で、はっきりつかむことにしたのです。

 ところで、約一年ぐらい戸別訪問して、打ち解けて交際していると、だんだんとその人の信心の欠点も分かってきますし、また、隠れたいいところも分かってきました。この人が、人はいいのに、も一つおかげが蒙れないのは、あそこにあんな大きな穴があいているのに、そのままに放っておいて改めようとしないからだとか、どうもあの人のすることといったら、いかがわしいと思われることがあるが、人一倍金銭を大切にするのであんなおかげも蒙れるのだ、という具合いに、一つ一つ動かぬ証拠があがってきました。

 『改まりによって、親先祖より子々孫々に至るまで、おかげを蒙る』。お互いの助かる助からないは、お互いの見直し、考え直し、行いの改まりいかんによるもので、おかげの蒙れないのは、こちらに、蒙れないような思いや行いがあるからで、それがおかげの漏れる穴になり、おかげにして頂けないのです。これが、私が信心友達を戸別訪問して、実地に調査して得た結論です。と言えば、私は人のことばかり気にしていたようですが、自分も、自身のことを放っておかないで、自分の信心が信心になっているか、なっていないかを調べてみました。

 これは、私が信心してから、四、五年たってからのことす。ちょっと油断をすれば、欠損になり、ちょっと心得違いをすれば、お金の融通がぴしゃりと止ってしまいます。『この神に信心すれば、日まさり、月まさり、年まさり、代まさりのおかげを受けさせるが、信心が一分違えば、おかげも一分違い、二分違えば、二分違うと思え』という御教えが、いつわりでないことを、まざまざと見せつけられました。そうと分かってきますと、どうして自分の信心の仕方・行き方に無関心でおられましょ
う。

 私は、〃教会へお参り〃すべきものか、しなくてもよいものかを、おかげの勘定というソロバンではじいてみる気になり、実地にためしてみました。物好きのように見えますが、論よりも証拠をつかんで、最後の決をとりたかったからであります。

 正直に言って、私はお参りということに対して、一つの理屈を持ち、先生が「参れ、参れ」と言われるのが、どうも、ふに落ちませんでした。お参りを怠ると、先生は「何で参らなかったのか」と言って、私を責めるように言われます。すると私の頭にピンとくるものは、「やっぱり、私のねらいは外れていない。口ではえらそうにきれいなことを言っても、私らが参らないと、教会は繁盛しないし、維持がむずかしい。だから、参れ参れと言うのだ」という思いでした。ものも取りようで、頭を悪くひねると、こんな理屈が、もっともらしく思われるのですから、先生も災難です。

 教会に祀ってある神様も、家に祀ってある神様も同じで、違いはない。家業多忙の中を、わざわざお参りする必要はない。教えを盾にとって、「お参りせんでもよい」という理屈も、ちゃんと立てられるのです。私はお参りがおっくうであったので、できることならお参りしないで、おかげを蒙ろうと骨折りました。しかし、この私の願いは、かないませんでした。

わざわざ参らなくても、家から拝んでおけば、第一に時間の経済になり、その時間が、家業の勉強に振り向けられます。これこそ一石二鳥だ。御教えからいっても、どこにもぜひ参らなくてはならないとは言われておりません。教会の神様も、家の神様も同じだ。忙しい中を、手間ひまかけて、参らねばならない理由がどこにあります。と、こんな理屈はちゃんとたつのですが、だからといって、お参りを怠りますと、どうも商売の方が思わしくないのです。

 私は、理屈だけでは、そこの解決がつかないことになりました。ところが、私は、根がソロバン相手の商売人です。「そうだ〃ひざとも談合〃という。一つソロバン相手に」と、ソロバンを証人にたてて、お参りした方が得かどうかを、表に作ってみました。つまり、お参りする月と、お参りしない月とに分けて、どのようにその相違が現れるかを、見てみることにしたのです。

(この「我が信心の歩み」は、2006年10月に掲載されたものです)
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