「我が信心の歩み」 (連載第17回)


[十七]  お参りをソロバンではじく(3)


 ところで、それ以前の私のお参りの状態は、どんなであったかと申しますと、それは別段の理屈もなしに、六カ月ほど毎日せっせとお参りを欠かさないでおりますと、だんだん、商売が忙しくなっできて、お参りする時間が、何かむだになるようで、惜しくてたまらんようになりました。「こんなに忙しいのだ、特に参るに及ばん。忙しいことを神様はご存知だ。お参りも大事だが、家業も大事だ。家から拝んでおいても、神様には通じる」と思って、忙しいままに、六カ月間お参りをやめていますと、だんだん、商売が暇になってきました。

 これはいけないと思い、お参りに精を出しましたが、その後の六カ月は、どういうものか、商売が思わしくなくて、商売が忙しくなってきましたのは、七カ月目からです。これでは、六カ月でおかげを蒙ふり、六カ月で食べつくしてしまうかたちです。六カ月で種まき、六カ月で取り入れるのはよろしいが、これでは、それにつづく取入れの種をまくのを忘れていますから、食べつくしたが最後、行きづまるよりほかない。これはどうしても、取り入れるしりから、種をまくのを怠ってはならないということが、だんだん分かり、そういうことをはっきりさせるために、お参りをソロバンではじいてみたくなったのです。

 そこで、私は、一カ月お参りすると、その翌月はお参りしないことにして、お参りする月と、しない月とを、交互に前後六回繰り返して、ソロバンがどんなバランスを示すか、ためしてみました。すると、お参りした月は、商売は忙しいが、しない月は暇であることがはっきりしました。これが人から教えられたのでしたら、まだ、疑わずにはおれなかったかも知れませんが、相手は無心のソロバンですから、何とも文句のつけようがありません。

 しかし、ソロバンにも間違いがないとはいえません。私は、もう一度たしかめてみました。今度は、十日を一期としました。さきのように一カ月ずつの長期だと、お参りを休んでいる間の損が大きいので、十日間の短期としたのです。十日参れば十日参らずといった式に、前後十二回繰り返してみました。ところが、ソロバンは正直です。お参りした十日間はいくらいくら、お参りしない十日間はいくらいくらと、きっちり損得がはじき出されて、「これ、この通り」とソロバン玉が、はっきりものを言っていました。で、これを何べん繰り返してみても同じことでした。

 信心なさる人のなかに、最初から高遠な理想を持って、信心の奥深いところを探っておられる方もあるようですが、私の信心は、その最初においては、そんな高尚なもの、お上品なものではありませんでした。何でも、目先が助かりたかったのです。一口にいったら、お金が欲しかったのです。「お金が欲しかったのだ」と言うと、「何という卑しいつまらん信心だ」と人から笑われるかも知れませんが、事実がそうだったのですから、ほかに言いようがありません。その頃の私の信心の目標は、金欲しやにあり、物質的な助かりを、無我夢中で追い求めたことは、隠しようのない事実です。

 私が、何か,に打ちあたる。これは、私の信心のおためしではないだろうか。私が思わぬ苦境に立つ。これは、私の心得違いによるものではないだろうか、というように、何かにつけて、とりとめない頼りない心を、信心という一線に添うように添うようにと努めました。考え直さなければならないところは考え直し、改めなければならないところは改めました。実際、目先が行きづまりに行きづまって、何とか物質的に助からないことには、立ち行かない私でありましたから、そんなふうに、いろいろと骨折らなければ、自分の思うようなおかげが蒙れなかったのです。その点では、私のしていた商売は、いやおうなしに、私の頼りないとりとめない心を、信心へ信心へと向けさせる重要な役割をつとめてくれました。特に、参る参らないによって、ソロバン玉が、「お参りは金もうけ」ということをはっきり見せてくれたとなりますと、私は金もうけがしたいのですから、どうしても参らずにはおれなくなりました。いや、私は参りたくなくても、ソロバンが、私を参らせないではおかないということになってしまいました。

 「私は、別に教会へは参らないが、家でちゃんと信心している」とか、「私は、形の上に出しては信心しないが、心で信心している」とか、こういうことはよく聞きますが、「家でしている信心、心でしている信心」といったら、どんな信心でしょう。お互いの信心は、一生懸命に足を運んで骨折り、浴びるほど教えを聞いても、なおかつ、信心らしい信心にならないものです。それなのに足も運ばず、骨も折らず、教えも聞かずにいて、信心らしい信心ができるものでしょうか。どうも、そこの道理が私には分かりかねます。

 御教えには、たしかに『神は昼夜も遠きも近きも問わざるものぞ。頼む(信頼)心に隔てなく祈れ』『今月今日で、一心に頼め、おかげは和賀心にあり』と出ております。ぜひとも参らねばならないという理屈は、どこからも導き出されません。しかし、私の実験したのでは、参れば参っただけのおかげ、家から拝めば家から拝んだだけのおかげで、参ると参らないとでは、おかげの差がはっきりと目に見えるのですから、どうにも言い紛らわしようがありません。それはなぜ、そんなことになるのでしょう。その辺の事情が、私にもはっきりしませんので、説明せよと言われると困るのですが、ここのところが、形と中身というものの、切っても切れない微妙なつながりかも知れません。

 例を、ご祈念にとってみましょう。理屈からいえば、ご祈念だからといって、何も暑い折に着物を着てしなくてはならないということはありません。裸でした方が、着物をよごさなくてすみ、よほど気持ちよくできそうです。人間、もともと裸で生まれてきたのだから、裸のご祈念が、ご無礼になるはずがありません。理屈を言ったら、こんな理屈がたちます。「裸のご祈念、何でいけないのだ、裸でもかまうものか」ということになります。それで、私は如才なく、裸のご祈念もやってみました。しかし、裸のご祈念は、やっぱり裸のご祈念です。どうも本当のご祈念になりません。裸になればなったで、心がだらけて引き締まらず、裸のご祈念だけのことしかできませんでした。仮に、裸でご祈念していると、そこヘ、お客さんがやって来たとします。裸のままで、お客さんの前に出られるでしょうか。たとえご祈念の最中でも、あわてて着物を引っかけて、あいさつに出ます。人に向かってさえそうでしたら、神様に向かってはどうでしょう。言わないでも分かったことです。私は、それで、裸のご祈念のいけないことを分からせてもらいました。

 そこの道理は、お参りということでも同じことです。これは、その当時の私の心の中を打ち明けるのですが、何かと理屈を盾にして、お参りしなかったのは、実際は、お参りするのが大儀であり、おっくうでいやなものであったからです。忙しいときには、これ幸いと、「とても忙しくて参れない。家から拝んでおこう」となるのでした。そこに、心の油断があることは、はっきりとした事実であります。この心のすきが、どうして商売の上、仕事の上に反映しないはずがありましょう。仕事にも商売にも、精が抜け根が鈍り、おかげが蒙れないようなことになるのではないかと思います。

(この「我が信心の歩み」は、2006年11月に掲載されたものです)
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