「我が信心の歩み」 (連載第18回)


[十八]  欲は放るに及ばぬ(1)


お参りを、ソロバンではじいてみたお話をしましたが、せっせと教会に足を運んで、毎日お参りさせて頂いていますと、その月は、ソロ バン玉の成績は上にあがりますが、お参りしようと思いながら、何かしら忙しくて、お参りしないでいると、その月は、月末の支払いが十 分にできず、結局、骨折り損のくたびれもうけになり、働いただけの効果が現れません。そういうことは、ソロバンがはっきり見せてくれ
ました。で、それは、私に「お参りは、金もうけ」ということを教えてくれたことになります。こうなると、私は金もうけが大好きです。

 せっせと教会に足を運び、毎日お参りさせて頂くようになりました。ところで、こうお話ししますと、なかには「あの先生、妙なことをいう先生だ。欲な先生だ」と、思う人がないとも限りませんので、ちょっと欲の話をしておきたいと思います。
 
欲というと、世間では何か汚いもののように思い、欲の話などすると、欲の深い人扱いにして、そんな人の気がしれんというような顔をする人がありますが、その人は本当に欲がないのでしょうか。欲がないときっぱり言い切れる人があったら、私はお目にかかりたい。極言 するようですが、欲のない人といったら、普通の人ではない。まず、気違いか、ばかぐらいのものでありましょう。常識をそなえた人なら 、欲のない人はありますまい。

 欲は、人が生まれながらにそなえているもので、欲は天性です。赤ちゃんは、オギャアとうぶ声をあげるなり乳を求めます。それは、欲と違いますか。お互いは生きている限り、いかにきれいなことを言っておりましても、欲は放れるものではありません。
 
 道によりますと、欲を放らぬと信心にならないというようですが、私は何も欲を放る必要はないと思います。決して放ってはなりません 。
もし、欲は汚いからというので、放れるものなら放ってごらん。私はそれを拾いに行きます。
 
 信心といいますと、すこぶるきれいなもののように聞こえますが、その中身を打ち割ったら、信心といっても、つまるところ、何かもの が欲しいのです。欲しいものが、どんなものか、そのものが違うだけのことです。詳しいことを知りませんから、間違っていたら、いつでも取り消しますが、「現世の欲をもって、神仏に手を合わすようなことをしたら、それは間違っている。ただ頼むは阿弥陀さんばかりだ」 と言う人があります。現世の利益を願うのが欲で、そんな欲を持ったらいけないと言うのなら、放らねばなりませんが、頼むは阿弥陀さん といって、阿弥陀さんに何を頼むのです。後生の安楽を頼むのと違いますか。それは、欲と違うのでしょうか。違うところは現世を祈るか 、来世を祈るか、現世と来世の違いだけです。やっぱり欲です。欲なことには変わりはありません。ただ、欲しいものが違っているだけの
ことです。

 ですから、仏様を信心するのも、何か欲しさに信心しているのだと言って、差し支えないように思います。私は、何で信心するようにな ったかと言いますと、それは、おかげ欲しさに信心したのです。しかし、私はそれでいいと思っています。大事なことは、骨折るというこ とです。骨折ってゆきますと、最後には、分からせて頂けます。私も、骨折ったかいがあって、いつまでも尽きぬおかげを分からせて頂きました。

 宗教というものは、人に安心立命を与えるものだと言われています。では、この安心立命というものは、どのようにして、手に入れるも のでしょうか。これは、いくら本を読んでも、どれだけ話を聞いても、本や話だけでは、とても得られるものではありません。それが証拠 に、宗教家だという人を調べてごらん。宗教家なら、その看板どおり、ちゃんと安心立命できておらねばなりませんが、どうも、そうでは なさそうです。安心立命屋さんが、安心立命を得られていないとすると、お互いが得られないのは無理もありません。ここで、安心立命の材料を言ってみますと、それは至極簡単明りょうです。

お互いが生まれてきたのは、恵まれて生まれてきたのですから、生きてゆくにも一 切万事恵まれるということが、安心立命の土台です。このことさえ、はっきり分かりさえすれば、安心立命ができるのです。しかし、それ が分かるには時間がかかるのです。

 ところで、私は、どうしてこの安心立命を得たか。私は、別に最初から、安心立命を得ようという立派な考えを持って、信心をはじめた のとは違います。ただ、金欲しやの一心でした。

それが、知らず知らずのうちに、神様に引っ張って頂いて〃やれ安心〃ということになったのです。そうすれば、金欲しやの信心が、しま いに、安心立命の信心へ連れて行ってくれたのです。人によると「信心するには欲があってはいけない。欲があっては、信心が信心になら ない。何でも欲は放らなければならない」と、言う人がありますが、私は頭から「欲を放れ、欲を放らないと信心にならない」と、言う人 の説には賛成できません。

 お金といいますと、お金のようないやらしい話は、口にするのも汚らわしい、真っ平ごめんと、顔をしかめる人がいないとも限らないと 思いますが、何と言いましても、お金ほど大切なものはありません。お金で苦労した人でしたら、お金ほど大切なものはないということを 、よくご承知のことと思います。なぜなら、お金がなかったら、食べてゆけないだけでなく、大切な自分のつとめを果たすことができないからです。世間では、お金のないのは、首のないのも同然だと言いますが、このことを言ったのでありましょう。どんなに偉い人でも、ど んなに賢い人でも、お金がなかったら、どうでしょう。情けないことに、偉い人、賢い人で通用しなくなり、けしからん人、――ひどいの になりますと、人非人にまで、なり下がってしまいます。
 手近い例で言えば、お金がなかったら、家賃が払えず、米屋の支払いができなくなり、家主や米屋から、その人は何と言われますか。「 家の中に住むことができて、雨露をしのがせてもらっていながら、家賃を払わないというようなことは、もってのほかだ。大体、誠意がな い」「自分の命をつなぐご飯を食べていながら、その米代を払わんとは、けしからん」とこう言われて、その人は何と弁解ができましょう か。
「誠意はあります」
「誠意があるなら、払ってもらいましょう」
「それが……」
「払いもしないで、誠意がみとめられますか」
「でも、払うお金がないので……」
「それが誠意のない証拠だ。払うべきものを払わずして、何が誠意だ、それを誠意がないというんだ」。
こんなふうに、お金がなかったら、その人がどんなに正直な人であっても、その正直は二足三文の値打ちもなくなり、頭から誠意がないと言われてしまいます。口惜しくても、お金がなかったら仕方がありません。

 この間も、ある信者さんが、そっと私の袂(たもと)を引っ張って、「先生、向こうへ参って来ているあの人、とても、けしからん人です」と言いますから、「どうして」と聞きますと、「うちの持ち家を貸しましたら、十カ月家賃をためて、一文も払おうとしません。それで、拝みたおして、やっと家をあけてもらったような始末です。あんな人でも、信心しておかげを蒙れるのでしょうか」と、だめをおされましたが、この人でも、払うお金があって、払わないでいたのとは違います。払いたくても払うお金がないので、十カ月も家賃をためてし まったのです。それがために、つい、けしからん人だと言われるようになり、けしからん人の仲間入りを余儀なくさせられたのです。だと すると、こんなに大切なお金を、放れといわれても、放れそうな道理がありません。放れたら、それは間違っています。肝心なことは、お金をどう生かして、どう使うかということにあるのです。

ある人が、雑談なかばに、私に親類に婚礼がありまして、その席に私が出た時の ことです。向かって、「あなたの前で、こんなことを言うのは何ですが、宗教家ほど欲なものはありませんなあ」と、話しかけてきました。「そう、宗教家ほど、欲なものはありますまい」「どうして、そういうことが言えます。欲のないのが宗教家と違いますか」「いいや、宗教家は、 欲なのが当然です」「どうしてです。それが、私には分からんところなんです」「まあ、考えてごらんなさい。信心する者と信心しない者 と、どちらが欲が深いか……。信心する人は、自分のしなければならないことをした上で、なおその上に、仕合わせをお願いします。死んでからも、極楽へやって欲しいと言っています。信心する者は、こんなに欲が深い。そういう欲の深い者を教えてゆくのが、宗教家ですか ら、宗教家は欲の深いのが当然で、何もそれを不思議がるにはおよびません」。

 私は、こんな受け答えをして、さらにその人に、どうして宗教家が欲なのかを説明しました。お互いは、欲があるから働くのであり、働 きもできるのです。欲があるから、正直であり、正直にもなり得るのです。欲があるから真面目なのであり、真面目になり得るのです。欲があるから、頼まれても横着しないのです。
大事なことは、欲といっても、本当の欲ということを、知るか知らないかということだと思います。

(この「我が信心の歩み」は、2006年12月に掲載されたものです)
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