「我が信心の歩み」 (連載第19回)


[十九]  欲は放るに及ばぬ(2)


 宗教といっても、いろいろあります。精神さえ助かったら、それでいいのだ、物質のことを願ったらいけないというのがあります。それなら、食うに困る人、借金の払えない人は、川にはまって死ねばいいのでしょうか。こういう人を、その宗教では、どう助けようというのでしょう。
  物質にとらわれていては、真理がつかめないというかもしれません。それなら、人を路み倒してもよいのでしょうか。それとも、川へはまって死んでしまったらよいのでしょうか。もし、それが真理であるとしたら、その宗教では、とても助かりません。
 そんな教えは、肉体を持たない心だけの人に教えたらよろしい。お互いは、心ばかりの人間ではない。肉体を持っています。どうして、肉体のこと、物質のことを願ってはならないのでしょうか。肉体を持っているのですから、物質のことを願うのは、当たり前のことです。家賃を払わなくてはならない。着物も着なくてはならない。ご飯も食べなくてはならない。家族は養わなくてはならない。

 税金も納めていかなくてはならない。だのに、物質のことを願ってはならないというのでは、お互いには向かない教えというほかはありません。

 お互いの収入はどうでしょう。サラリーマンは、月の収入がきちんと決まっていますから、支出をその収入に合わせていけばよろしいが、サラリーマン以外は、支出の方は決まっていましても、月にいくら入ってくるやら、収入の方は決まっていません。これは、農工商を通じて、やってみた上でなくては分からないものです。ですから、真面目に考えたら、とてもやっていけません。
 何一つ、これという安全なものはないのですから。といえば、サラリーマンでも、安全とはいえません。収入は決まっていますが、そのかわり、いつ何時、首になるか知れたものではない。お先真っ暗です。欲を放れと言われても、欲は放れません。信心は、何も欲を放らないと、できないというようなものとは違います。欲を放る必要はありません。
 『信心は相縁・機縁』と言われていますが、ここで機縁と言われるのは、どんなことでしょう。
 お互いの信心は、先にも話しましたように、何かを切っ掛けにして始められるもので、その切っ掛けとなるものを機縁というのです。で、この機縁となるものは、何でもよろしい。何でなくてはならないということはありません。ですから、欲にしても、何も放らなければならないことはありません。その欲をカギとして、信心の扉をあけたら、それでよろしいのです。

 〃田の草を取ってそのまま肥やしかな〃。欲が信心の肥やしとなり、欲が信心を押し進めてくれる。この欲こそ、私を極楽へ導いてくれたのです。
 私の至極懇意な人で、四十年ほど信心している人があります。ある日、参って来まして、
「先生、私はもうお金いりません。神様一心に頼っていましたら、お金はいりません」と言います。
「そう、お金がいりませんか。そんなら、私は、お金が欲しいから、あなたのいらんお金をもらいましょう。あるだけ出しなさい」と言いますと、
「先生、そら無茶ですわ。そんな無茶なことを言われましても……」と、私の申し出を拒みますから、「何が無茶です。あなたは、お金がいらないのでしょう。そんなにいらないお金なら、私は、お金が欲しいから、私にくれないかと言うまでだ」「でもそれは、これからはいらんと言うのです」「何のことだ。これからいらないと言うのか。それくらいのことなら、信心してない人でも言いますよ」と言って、笑いましたが、三十年、四十年信心していましても、言うとなると、この程度を出ないのです。あまりきれいなことを言いますので、ついからかってみました。

 そこで、私はその方に、こんな話をしました。
「君、そのお金、減りますぞ」
「減りますって、人をおどかすようなことを言わないで下さい」
「でも、そのお金は減る」
「どうして?」
「君は、以前貧乏していた。どうしてお金をもうけたのか」
「信心させて頂いて、おかげを蒙ったのです」
「では、おかげを蒙ったら、もう信心しないでもよろしいのですか。君は信心を放してしまっている」
「そんなことはありません。やっぱり、お参りさせてもらっています」
「お参りしておっても、精神は、信心に向かっていない。できたお金を見て、これだけできたら大丈夫、これで安心だと、お金を握って、お金に頼ってしまっている。が、金は根のないもの、浮いたものだ、そんなものに頼って安心するのは、危険この上なしだ。そればかりではない。君は最初無一文から、空(くう)の神様を拝んで、一心にすがっていたら、そのお金ができてきたのだ、お金をつかんで安心してしまったら、それは神様を放していることになる。神様をつかんで現れてきたものは、見ているだけでいい。頼りにしたら、あぶない。減る」
「なるほど、これは、いいことを聞かせて頂きました。有難う存じます」
「分かったら、それで結構です」
 
 その人にこんな注意をしたことですが、ここのところが、欲を生かすか殺すか、欲をどう取り扱ったらいいかの微妙なところであります。

 神様は肉眼に見えません。その肉眼に見えない神様をつかまえて、肉眼に見えるお金ができてきたのです。すると、肉眼に見えない神様を放し、肉眼に見えるお金をつかまえて、やれやれこれで安心だとなりやすい。もしも、そんなことで落ち着こうものなら、いつ何時、背負い投げをくわされるか知れませんから、危なくて見ておれません。神様一心につかまえていましたら、いくらお金ができてきましても、「ああ、大分できてきたな」と、お金を見ていたらよろしい。それで、めったにお金は逃げません。神様さえ放さなかったら、お金はその上に増えていきます。

 ところが、ここがちょっとむずかしいところです。欲の小さい人は、ここで間違ってくるのですが、この意味合いからいって、欲は放るどころか、欲の上にも欲になって頂きたいと言いたいのです。世間では「あの人は欲な人」と言いますが、私どもから見ますと、その「欲な人」と言われる人は、「欲なしの人」で、まだまだ、本当の欲というものを知らないと言えます。お互いは、本当に、「目先のおかげ」よりも、「いつまでも尽きぬおかげ」を大目標に掲げているでしょうか。ここが分からせてもらっていませんと、まだまだ、その人は、本当の欲があるとは言えません。そこで、本当の欲になるのには、どうしても頭を打って苦労してくるか、信心して、よく話を聞かせてもらわないといけないということになるのです。
(この「我が信心の歩み」は、2007年1月に掲載されたものです)
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