「我が信心の歩み」 (連載第20回)


[二十]  何が私を苦しめたか(1)


「お参り」の話、「欲」の話で、話がわき道へそれましたが、ここで、話を本筋にもどして、頼母子の掛け金のおかげを蒙ってからのちの話をすることにします。

 さきにも言ったように、神様を信じ、神様を拝んでいるはずの私が、いつの間にか頼母子だけしか拝んでいなかったことが分かり、その心得違いをお詫び申し上げ、神様に頼母子を掛けて頂くようになりますと、二月目からは、ちゃんと頼母子屋が来るまでに、入り用な金がととのいますので、それからというものは、掛け金の心配をしないでもいいようになり、しばらくは、何のいざこざもなく過ごさせて頂きました。と言いますと、この頼母子の掛け金についてそれまでは、神様に少しもお願いしていなかったように聞こえますが、無論、掛け金について、「どうぞ滞りなく掛けさせて頂けますように」と抜かりなく、お願いしていました。では、どうしてそのおかげが蒙れなかったのでしょう。

 それは、内面的に言いますと、口では、「どうぞ掛けさせて頂けますように」と、神様に願っていますが、実は、自分の力で掛けるんだ≠ニいう力みがありまして、自分が掛けるのでなくて、神様のお力によって掛けて頂くのだという、肝心かなめの信念がありませんでした。これは、お願いが本当のお願いになってゆきません。頼母子の掛け金が、お願い通りに掛けさせて頂けなかったのは当然であります。

 ここが、願いが生きるか死ぬか、届くか届かないかの大事なところです。一言、申し添えておきます。

 ところが、一難去ってまた一難≠ニいうように、私の前半生は、目先の行きづまりに追われ通しでありました。金、金、金で、つらい目にあいどおしでした。その当時の私が、金の亡者になるのは、無理のないことです。働いても働いても、赤字が出るばかりで、欠損つづきです。働けば働いただけ、その効果が現れ、赤字が多少でも黒字になり、欠損の穴が埋まるなら、働きがいもあるのですが、いくら働いても、赤字が大きくなり、欠損の穴が大きくなってゆくのですから、たまったものではありません。

 今年じゅうは、なんとかやっているにしてもこの分では、とても年末は越すことができません。と、分かってきますと、それが分かっていて、今年一年、商売を続けるということは、ただやたらに、借金を増やすために商売をしているだけで、無理に続けるよりは、やめるに越したことはありません。しかし、やめるとなると、それから後、何によって、その日その日の糧(かて)を得ていったらよろしいでしょう。手慣れた商売をやめ、しかも、借金を背負って、身に覚えのないことをやってゆかねばならないとすると、これまでの商売をやめたからといって、それで不安が消えてなくなるものではなく、かえって、難儀の度を増すように思われ、私は、不安のどん底に突き落されてしまいました。

 ところで、いくら暗やみの夜道に迷い込んだ者にでも、夜明けというものはあり、いつかは自分の迷いに気づく時があるものです。仕合わせなことに、私は、今半歩で、破滅という魔のふちへ、真っ逆さまに落ち込もうという間一髪のところで、私に、新しい信心の夜明けがやってきました。それで、ようやく私は助かりました。何という有難いおかげでありましょう。

 御教えに『まこと(真)の道をゆく人は、肉眼をおいて心眼を開けよ』とありますが、私は、真に自分というものが、どんなものであるかということが、はっきりすると同時に、神様が、どんな神様であられるかということが、はっきりといたしました。これは私の心眼が開けたということです。私は、自分というものを知ることによつて、神様を知らせて頂いたと言えましょう。私の前には、新しい信心の天地――目先のおかげを超えて、末始終安心の、永遠のおかげの太陽が光り輝く、新しい信心の天地が開けてきました。そこで、私はやっと、この苦悩の現世に、安楽の境地が見つかり、安心立命のおかげを蒙ることになりました。

 そこで、その筋道をかいつまんで言いますと、私の信心――私が、これまで、これが信心だと思っていた信心が、実は、本当の信心でなかったということ、生きた神様を信じているとはいっても、実は、本当に神様を信じてはいなかったことに、気づかせて頂いたのであって、ここに、私の信心は、今までと比べると、急角度に回転することになりました。

 それは、どういうことかと申しますと、赤字つづきで、欠損ばかりしていたのでは、行きづまるよりほかありません。私は、最後の局面まで追いつめられてしまいました。今度という今度は、今までとは違って一生の重大事です。生半可な中途半端な妥協は許されません。

 そこで、私は御神前に座って、神様と首っぴきで、突きつめるべきところを、とことん突きつめて、この行きづまりをどう乗り越えたらよいか、その道を探すために、じっと考え込んだものです。というのが、すでにお話ししてきたように、何か事がある時には、いつも、御神前が、私の信心がどうなっているか反省して、改まりを考える思案の場所になっていたからです。 その時、私が、「はっ」と気づかせてもらったのは、何が、自分をこんなにまで苦しめるのかという、私を苦しめている魔物の正体でありました。

 では、私を今日までずるずる引きずり回して、私をこんなにひどい目にあわせてきた魔物は何であったかといいますと、それは、私が、これこそ私にとって唯一の味方であると思っていた、私の腕≠サのものでした。私は、そう気づかせてもらいますと、その一瞬、何という恐ろしい腕だと、びっくりすると同時に、そんな恐ろしい腕とも知らないで、それに引きずり回されていた自分というものが、底の知れんばか者であったことをはっきり知ることができました。

 となると、私は、そんな腕に末練を持つわけにはゆきません。愛想をつかすほかありません。よくもこんな危険千万な腕を信じ込み、頼りにして、今日まで商売の上で、きりきり舞いをしてきたことだと、自分の愚かさに気づきました。もう、今日限り、こんな腕とは「さよなら」だと決心がつきました。

 それと同時に、私は神様にお詑びせずにはおれませんでした。どうしてかと言いますと、今日までの私は、形の上では神様を拝んでいたように見えましても、内面では、わが腕を拝んでいたからです。事実、私は天地金乃神様を信じ、天地金乃神様を拝んでいると思っていましたが、いつの間にか、肝心の金光大神様、天地金乃神様は、わら人形同様なものになって、片隅に押し込められ、私の腕が、神様顔してのさばりかえり、私もまた、私の腕を拝んでいたのです。私はこの心得違いを、心から神様にお詑び申し上げ、お許しを願いました。

 ところで、お詑びするにはしたものの、私には、どうしても解きがたい一つの間題が、まだ残っていました。それは、商売をやってゆく上には、どうしても腕を振るってゆかなければなりません。自分の腕を他人の腕と比べてみても、たいして長短の差があるようには思われません。それなのに、なぜ、自分だけが、こうも腕のために悩まされなければならないのでしょう。人はみな恵まれているが、自分だけは恵まれていないので、つらい目をしなければならないというのなら仕方がありませんが、それならそれで、どうして神様は、この自分に、こんな危険千万な腕を振るわなければならないような、商売をさせなさったのでしょうか。私には、それがどうもふに落ちません。

 そこで、私は、その思いのまま神様の前に持ち出して、神様にぶつかってゆきました。その時、私が神様から教えて頂いたのは、『世間で、天職というではないか』というご一言でありました。

 天職――これを承った時、私の頭にぴんと反射的にきましたものは「あなたのお仕事」という思いでした。今日まで、私は、自分の商売を自分の商売と思ってやってきましたが、それがあなたのお仕事であったとすると、それを自分の商売としてわが腕を振るってきたということは、あなたのお仕事を横領していたことになります。

 そうと分かりますと、私は神様にお詑びせずにはおれませんでした。私は、今日まで、あなたのお仕事を、自分の仕事と思い、自分勝手に、おれが、わしがでやってきましたことを、お詑びいたします。

 どうぞお許し下さい。『天職』というお言葉を頂き、あなたのお仕事だと分からせて頂きましたからには、ただ今から、商売をあなたのお手にお返しいたし、これから後の私は、あなたのお仕事に使って頂く奉公人として、お仕えいたします。どうぞ、あなたのお気の召すままにお使い下さい。私は、私の腕の恐ろしさが骨身にしみております。私は、私の腕をよう使いません。どうぞ、あなたのお手によって、私の腕をお使い下さい。つきましては、商売をあなたにお返しいたします以上は、世帯もあなたにお渡ししなければなりません。その上、私には、何千何百円の借金がございます。これも、あなにお渡しいたします。どうぞ、あなたのお手によってお払い下さいませ。

 私といたしましては、これからさき、「祈りということ、あなたとともに勉強するということ、経済に意を用いるということ、親先祖を大切にするということ、子供の養育ということ、家庭の円満ということ、私のすべての思いをあなたの思いに合わせてゆくということ、借金の断りを言うということ、――以上の八つのことを、私の果たさねばならない役前として、つとめさせて頂くことにいたします。どうぞ、よろしくお願い申し上げます」。

 私は、このように神様にお詑びし、かつ、お願い申し上げました。
この時から、私は、どうやら本当に神様をお祀り申し上げることが、できるようになったと言えましょう。
(この「我が信心の歩み」は、2007年2月に掲載されたものです)
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