「我が信心の歩み」 (連載第22回)


[二十二]  身の程を知る(1)


 先頃、神戸を、まる一日がけで、見物して帰って来た人が、「どうも今日という今日は、しみじみと、世の中が恐ろしいものであることを、知らせてもらいました」と、非常に感じ入ったように言いますので、私も、ついつり込まれて、「どうして?」と聞きますと、その答えは次の通りでした。

 「あちらこちらと、足にまかせて歩き回り、諸々方々、立派な邸宅や建物を、たくさん見て来ましたが、説明を聞いていますと、これは、もと何某の邸宅であったが、今は誰某が住んでいます≠ニいうのが大部分で、まず十軒のうら八軒までは、その持ち主の名前が替わり、最初に、その邸宅を建てた人が住んでいないという有様です。立派な建物のことですから、普請がすむまでには、少なくとも五年なり、八年なりかかっていると思います。

 折角、自分の安住の邸宅として建てた家でも、住むことができなくなって、人手に渡さなければならないということは、何ということでしょう。貸家でないかぎり、誰が好きこのんで、人に住んでもらうために、時間をかけ、金にあかして、立派な邸宅を建てる者がありましょう。自身はいうまでもない。子々孫々まで、いつまでも平穏無事に、住み永らえようという目的で建てたのに相違ありません。

 それが、事こころざしと違ってきたといいますか、まるで、その家を、人のために建てたようなことになっていますので、まことに世の中は頼りないものだと思わずにおれません。有為転変の世の中だということは、よく聞いてはいますが、何百何千万という大身代で、自他ともに許す大財産家が、何十何百万のお金を入れて、その豪華を誇った邸宅が、たった一代のうちに、はかなく人手に渡ってしまい、あの家、もとは誰其のものだったが、今ほ何某のもの≠ニ聞かされましては、いくら無常の世の中でも、恐ろしくなってまいりました」。すっかり感慨無量といった口ぶりでした。

 そこで、私は「それが本当に分かりましたか。それが本当に分かったら、いい人生見学をしたことになる。私はいつも口ぐせのように、いかに人間が力み返ってみても、それには限度があって、たかが知れている。しょせん、人間のすることは、どんなに頼りないものであるかが、分かったでしょう」と言って、これを機会に、一本とどめの釘をさすように言っておきました。この人の神戸見物のみやげ話は、神戸の程よい位置に散在している豪華な邸宅を見て、たしかに、人間の無能無力を突きとめた話であると思います。

 それは、なぜかと言いますと、この話こそ、世間から、人一倍どころか、何層倍も能あり力ありと見られているお偉い方々が建てた豪壮な邸宅が、コロコロと、その所有権が移ってゆくということから、そういうお偉い方々でも、また無能無力であるということが、いやというほど、あばき出されているからです。

 神戸の話が出ましたから、少々かび臭いけれど、鈴木商店の話を引き合いに出させてもらいますが、全盛をうたわれた約二十五年間の、鈴木商店の豪勢ぶりはどうでしょう。その大黒柱であった金子直吉さんの評判はたいしたもので、飛ぶ鳥も落さんばかりで、鈴木商店に没落の日がこようなどということは、誰も夢にも思いませんでした。それがどうです。いざ没落となると、急転直下、奈落の底へ真っ逆さまです。よもや、金子さんは、転落しようとして、一生懸命に二十五年間働いたのではありますまい。二十五年間、飛行機で、ぐんぐん大空高く昇りつめるように、とんとん拍子の黄金時代を築きあげ、日本で五本の指のなかに数えられる大財閥になったが、何のことはない目が覚めたら、どかんと何億という借金の大穴があいていたというのです。これでは、夢を見ていたのと変りありません。

 何も私は、金子さんを責めるつもりはありませんが、これで、金子さんに、末通った、本当の甲斐性(かいしょう)があったと言えるでしょうか。金子さんは、世間から、相当どころか大いに甲斐性があり、腕があると見られておった。本人自身も、その点大いに自身があっただけに、世間もそれを高く買っていましたので、いよいよ破産したとなると、たくさんの人々に迷惑をかけて、世間に顔向けできないことになってしまいました。それに比べると、お互いは、金子さんのような甲斐性もなく、腕もありませんが、世間のたくさんの人たちに、迷惑をかけないだけ、お互いの方が金子さんよりましかもしれません。

 一体、人間は自分に甲斐性があるの、腕がたつのといいますが、本当の末通った甲斐性を持っているのでしょうか。最後までやり遂げられるだけの腕を、持っているのでしょうか。恵まれてこそ、甲斐性があり、腕がたつように見えるのです。恵まれなかったら、甲斐性も、腕もあったものではありません。事実は、恵まれているのを、そうとは知らずに、自分の力だとうぬぼれ、自分を過大評価していますから、思い上がって、そこに危険なことを、しでかすようなことになるのです。

 あの第一次世界大戦(大正三年〜七年)当時、あっちにもこっちにも、ちょうど、雨後の筍(たけのこ)のように、大小の成金が輩出したことは、みなさまのご承知の通りですが、口の悪い私は、あの成金さんたちを、こんなふうに言っていました。
 「世間では、成金、成金というが、あれは成金ではない。病気の一種である。将棋の歩でも、一生懸命に押していくうちに、金に成るから、成金といっても、何も珍しいことではないが、世間でいう成金は、脹満(ちょうまん〓過度に腹のふくれる病気)という病気だ。世界大戦という空前の戦争景気から、妙な病気がはやり出したものだ。腹がふくれすぎて、歩くのがつらく、そりかえらないと、歩けないという状態の人もある。世界大戦が始まってから、流れ出した煙硝(えんしょう)くさいにおいが、日本にも流れてきて、そのにおいにあたった者が、あの病気を患うのだ。うそだと思うなら、見ていてごらん。戦争がすんでしまったら、気流が変わり、それと同時に、あの脹満は一ぺんに下痢するに違いないから」

 と言っていましたが、果たせるかな、戦争が終り、世界が軍縮に向かうと、大正九年にはすっかり気流が変わって、成金がもとの歩(ふ)にかえり、脹満は一たまりもなく、一せいに下痢を始めて、見る影もなくやせ細ってしまいました。ひどいのになると、短刀やピストルで、自殺する者、首をくくって死ぬ者さえ出ました。
 ところで、こう言いますと、何だか自分のことをぬきにして、人のことばかりを洗い立てているようですが、これは決して、ひとごとではありません。わがことであります。対岸の火事ではないのです。お互いは、ここのところを、はっきりさせなければなりません。

 お互いは、えてして、自分はこれだけさえた頭を持っているとか、こんなに切れ味のすごい腕を持っていると思い込んで、自分の知恵分別を働かせさえすれば、何でもなし遂げられるのだという自信を持ちやすいものですが、お互いの知恵分別は、そんなに能があり、力があるものでしょうか。ここをはっきり見極める必要があります。

 私からみますと、子供が物干し台に上がって、竹竿(さお)を持って、天の星をかき落そうとするようなものです。竹竿といえば、その人の力量次第で、三尺の竹竿を持てる人もあれば、十間、二十間の竹竿を持てる人もあるにはありますが、何十間の竹竿なら、かき落せると思っているのでしょうか。万一にも気をきかせて、天の星の方から、熟した柿のように落ちてきて、竹竿に当たってくれたら格別のこと。そうでない限りは、五十間、百間、二百間の、いくら長い竹竿を持ったとしましても、天の星は、そのばかさ加減をあざ笑うように、はるかかなたの空にまたたいていて、どんなにやっ気になって、背伸びしてみても届くわけがありません。それをそうとは知らないで、この十間の竹竿なら、この二十間の竹竿だったら、その竹竿が天まで届き、はるかかなたの天の星が、かき落せるように思っているのですからよくよく身の程知らずと言わなければなりません。

 実際、お互いの知恵分別というものは、底の知れたもので、いくらあるといっても、竹竿でいうなら、たかだか十間、二十間程度のもので、そんなに大した能も、力もあるものではありません。自己を過大評価しているばかさ加減においては、大ていの人が、五十歩百歩の違いです。

ところで、この甲斐性なしということが、本当に分かりさえずれば、そういう自分はどうしたらよいのか、しぜん、その見極めがつくはずですが、手を折ったり、足をくじいたり、頭を打ったりして、痛い目にあわないと、なかなか容易に、そこのところが分かりませんので、つい自分に、何でもやり遂げられる力があのるように考えて、おれが∞わしが≠ナ、かえって、苦しみ悩む破目になるのです。

 お互いは、何をおいても、自分というものの、掛け値なしの正体を見極め、申斐性なしは甲斐性なしのように、一切を神様にお願い申し、神様の思召しに、自分の知恵分別をあわせていくことが肝要です。
 それが信心になっていくのです。ここのところを教祖様は『心配する心で信心をせよ』と、仰せられたのではないでしょうか。

 お互いには、どうも「わしが動いて、わしが食べる」という根性が、根をはびこらせていて、それがなかなか抜けません。いきおい「わしが働いて、わしが食べなければならん」と、力み返ることになり、何でも彼でもわしが∞わしが≠ナ通そうとするものですから、次から次へと、苦しみ悩みが、わいて出てくるのですが、その源はというと、「わしが働いて、わしが食べる」というように、甲斐性がないくせに、甲斐性があるように考え違いをしているところにあるのです。

 ですから、神と人とが対立し、向かいあって立つようなことになってくるのです。これでは、お互いを神様から分かれさせ、離れさせないはずがありせん。否、そればかりではありません。天地を足げにかけるようなことになってきます。だから、その人の一生に、苦しみ悩みがなくてすんだら、それこそ不思議です。天地に住みながら、天地を足げにして、安らかに天地に住める道理がありません。

(この「我が信心の歩み」は、2007年4月に掲載されたものです)
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