「我が信心の歩み」 (連載第23回)


[二十三]  身の程を知る(2)

 ここで、私は、お互いはどうしてこの天地に生まれてきたか、どうしてこの天地に生きているかということについて、ごくかいつまんで、お話しようと思います。

 まず、お互いは、言うまでもなく、両親があって、この世に生を受けたものです。その点で、親が生んでくれたものといえます。しかし、親が生もうとして生めるものでなく、男か女か、どんな子が生まれるか、人間の親には分からないことです。親には種まきした覚えはあっても、その種が、いつ芽を吹くかも、分からないのです。分かるとこは「どうやら月のものがとまったから、妊娠したのかなあ」ぐらいのことです。まったく『子を産むはわが力で産むとは思うな。みなおや(大祖)神の恵むところぞ』と仰せられるように、天地のお徳・お力によるものです。

 といたしますと、お互いは「わしが生まれてこようと思って生まれてきたのだ」とは言われません。どんな英雄・豪傑・偉人といわれる人でも、自分の力で生まれてきたというような人は、天地開闢(かいびゃく)以来、一人もありません。このようにお互いは、その出発点において、わが力で生まれてきたものではないことが分かれば、わが力で何事もできるというようなものではないことが、分からなければならないはずであります。

 以上簡単ですが、お互いが、どうして生まれてきたかという話は終えまして、つぎには、お互いが、どうして生きているかという話に移ります。昔から、米のめしとお天道様はついてまわる≠ニ言いますが、この言葉の裏には、やはり、天地からのおあてがい、お恵みであるという意味が含まれているように思われます。まったく米のめしは、天地の神様が、お互いのためにお与え下された、おあてがいであります。

 御教えに『食物はみな、人の命のために、天地乃神の造り与えたも(給)うものぞ』とあります。食物がお互いのために、神様が造り与えて下さった物といたしますと、『何を食うにも飲むにも、ありがたくいただく心を忘れなよ』でなければならないことは、言うまでもありません。

 ところで、この御教えは、文字の上では、ただ食物だけについて教えられているようですが、これは、食物だけに限った御教えではありません。お互いの生活には、着るということ、食べるということ、住むということ、つまり、衣食住の三拍子がそろわなければなりませんが、『天地乃神の造り与え給うもの』は、ただ食ばかりでしょうか。いや、そうではない。

 衣もそうなら、住もまたそうです。衣食住一切、天地乃神の与え給う素材があってこそのことであります。 ですから、お互いの、身すぎ世すぎは、神様がお互いのために、お造り下され、お与え下さる衣食住を土台にして、営んでいけるのでして、お互いが生きながらえていけるのは『天地乃神の造り与え給う』衣食住のお恵みによって、生きながらえることができるのであって、お互いは、神様のお徳に包まれてこそ、生活ができるのです。まことに『疑いを離れて、広きまこと(真)の大道を開きみよ。わが身は神徳の中に生かされてあり』であります。

 こう言いますと、なかには、わが田に水を引くように思う人があるかもしれませんので、もう一ぺん「いや、わしが生きているのだ」という考えに立って考え直してみましょう。「わしの力て生きている」ということになりますと、もう死ななくてもよいはずになり、死ぬにしましても、死ぬ時機を考えて死ねるはずです。かわいい子供をあとに残して死んだり、大恩のある親に先だって死んだりしなくてもよく、その辺のところは、思うままになるはずです。ところが、事実はどうでしょうか。死ということは、人間の力では、どうにもできない問題です。では、どうしてそれが自由にならないのでしょうか。それはやはり、わしが、わしの力で生きているのではないからであります。

 さて、このようにして、お互いの生きるということが、天地のお恵み、天地のお徳によって、実は、「生かされて、生きているのだ」といたしますと、「わしが働いて、わしが食べる」などと言えないことになりましょう。「わしが働いて、わしが食べる」と言いましても、それは、ちょうど操り人形が、その人形に結ばれているひもで動くように、お互いを生かして下さっている天地のお恵み、神様のお徳という、眼に見えないひもで結ばれていればここそ、お互いにそれができているのです。も一つ言えばわしが働いて、わしが食べる」と威張っていられるのも、生かして下さっているお徳のひもにつながっていればこそです。

 操り人形はどうでしょう。ひもを放されたら、コトンと倒れます。お互いも、またそうです。天地のひもを放されたら、コトンと倒れます。操り人形なら、箱に人れ片づけられますが、お互いは、棺おけに入れられて、火葬場に持って行かれ、焼かれてしまいます。それで何の文句も言えません。

 これで、「わしが働いて、わしが食べる」という考えの、間違っていることが分かって頂けたと思いますが、このように、お互いは、お互いを生かさずにはおかないという厚く深い思召しで生かし給う神様のおかげで、生かされて生きているのだとすると、そういうお互いは、どうしたらよろしいのでしょう。私は、そういう天地にとけ込み、神様にいだかれて、神様がお生かしなされようと思召すままに、身も心も打ち込んでいくのが、お互いのたどらせてもらわなければならない、信心の道ではないかと思います。
 そうすれば、お互いの頼りない知恵分別を使って、「わしが働いて、わしが食べなければならない」と意地をはり、血眼にならなくても、天地が責任を持って下さり、神様が責任を負って下さって、着ることも、食べることも、住むことも、一切合切、身すぎ世すぎに不自由のない「お仕着せ」のおかげを下さることは、間違いないのです。鳥や獣(けもの)は、人間のように、着物をつくることを知りません。それで、神様は、鳥や獣には、毛という着物を着せて、寒さ暑さをしのぐようにさせておられます。人間には、鳥獣のように毛ははえませんから、着るということは、神様から、ちゃんとほかの方法で保証されているのです。

 しかも、神様がお与えになるものは、衣といわず、食といわず、住といわず、もとは、みなタダです。タダというと、「いや、金を出している」と言う人がありましょうが、それは着られるよう、食べられるよう、住めるよう加工し、世話をした人々に対する手数料、世話料を払っているのであって、天地には、一文も払ってはいません。それを有難いと思わないで、不足に思うようであったら、『天地の間に氏子おっておかげを知らず』という、大きなご無礼と言わなければなりません。

 肝心なことは、自分自身をつきつめて、自分というものは、外観は、どんなにいかめしい様子をしていても、内面は、がらんどうの張りぼて(張り子)であるということを知ることです。これが分かりましたら、どうしても、その日その日の暮らし方を、この自分を生かして下さっている天地の親様の思召しに、添うようにさせて頂かなければ相済まないということになります。御教えに『わしがするという信心では、おかげがないぞ。させて頂くという心におかげがある』とありますが、このさせて頂くという心こそ、「私には、まるまる力がないのでございますから、どうぞ、あなたのお力によって、させて頂けますように」と、自分と神様とが一つにならせて頂く心であります。

 御理解に『人間は万物の霊長であるから、万物をみて、道理に合う信心をせねばならぬ』とありますが、ここで、二、三の例をお話ししてみましょう。

 ある日のことでした。前裁(せんざい)を見ますと、鉢植えの平戸(ひらど=つつじの一種)の花が真っ盛りで、まるで大きな花かんざしのようです。それで、私は思わず、「よう、平戸くん、ごさかんですなあ。去年から見ると、幹もふとり、枝もふえ、花もたくさんついて……」と、ほめてやりました。すると、平戸くんは得意顔になって、「ええ、これは、ぼくの昼夜兼行の努力の結果ですよ」と、私に言ったように思いました。平戸くんでなくても、こう言いたいところです。それで、私は「君、そう偉そうに言うけれど、わしが寒肥したり、水かけしたんで……」と言ってやろうと思いましたが、そんなことは、まだまだ末の末のことです。平戸くんが「これ、ぼくの昼夜兼行の努力で」と、威張っていられるのも、鉢の中に盛られている五、六升ばかりの土のおかげなのです。その急所を突くつもりで「君は、ぼくの昼夜兼行の努力の結果だ≠ニ言うが、実は土のおかげと違うのか」と、平戸くんをたしなめてやりました。と言いますのは、平戸くんは、自分の昼夜兼行の努力によると言いますが、この土があればこそ、この土の徳によってこそ、平戸くんの努力もむだにならず、私の寒肥も、水かけも徒労に終らなかったからです。もし平戸くんが、土から離れていましたら、平戸くんの昼夜兼行の努力は、どうなったでしょう。それは、手で楽にさげられる鉢植えの平戸だけに限りません。たとえ、雲をつくような大木でも、土を離れたら、枯れてしまうよりほかはないのです。

 ところが、平戸くんは、なかなかの理屈家です。「ぼくは土のようなものは認めない」と言います。これには、私はびっくりしました。「君は一体、どこから出ているのだ。土が分からないのか、この土が」「そんなもの分からん」。どうしても分からないとがんばります。そう言えば、魚は水中に生じて水が分からず、平戸くんは土から生じて、土が分からないのです。私は、平戸くんを説得するのに往生しました。

 この間も、ある人が「私、一生懸命に信心していますが、ちょっともおかげがないから、信心をやめようかと思っています」と言いましたが、この人が、こんなことを言うところをみますと、この人は、信心をやめたら、天地を離れた別の世界へ行けるとでも思っているのでしょうか。信心をやめて、天地の外へ行けるのならともかくも、『生きても死にても、天と地とはわが住み家と思えよ』と、生死を通して、この天地を離れることができない限り、どうして、そんな無茶が言えるでしょうか。これでは、人間の平戸くん≠ナあります。

 お互いは、どんなお互いでありましょう。することなすこと、何から何まで、天地のお恵み、神様のお徳あってのお互いです。これが分かっていましたら、何事によらず、わしが∞おれが≠ェ出ないですみます。そうでなければ、すべてに、わしが∞おれが≠ェ飛び出して、「それはわしの力である」「それもおれの力でこうなった」となり、いつの間にか、根が浮き上がってしまいます。これでは、土が分からない平戸くんが笑えるでしょうか。お互いの心がわしが∞おれが≠ニ、わしの方へ走れば走るだけ、神様から、天地から、お互いの根は浮き上がってしまいます。気をつけなければなりません。
(この「我が信心の歩み」は、2007年5月に掲載されたものです)
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