「我が信心の歩み」 (連載第24回)


[二十四]  身の程を知る(3)

 次に、朝顔の話ですが、みなさんは、朝顔には目があるかないか、どちらだと思いますか。私は、その働きから見て、朝顔には目があるように思います。こう言うと、やぶから棒に妙なことを言い出すと、思われる人があるかもしれませんが、お互い人間と比べても、朝顔の方が、よっぽど賢明な目を持っているのではないかと思われます。私は以前に、朝顔もつくった経験があります。何寸か伸びたところで、竹を立ててやります。竹が朝顔から何寸も離れたところに立っていても、朝顔はいつの間にか、その手を差し伸べて、竹にその肌をくっつけて、きりりっと巻きつきます。あれは、どう考えても、朝顔に目がなくては、できない仕事のように思われます。

 ところで、朝顔は、どうして竹に巻きつくのでしょう。それは、朝顔としては、自分がどんなに伸びても、自分だけでは、どうしても、地をはうより仕方がなく、とうてい、頭を上げることができない頼りない自分であるという、自分自身の相場を知っているからです。自分は頼りないものであるから、頼りになるものをがっちりとつかんで、頼りない自分をしっかりしたものにするのであります。

 私は、さきに、お互いは、どうしても神様に、お頼り申さないではいられないものであることをお話ししましたが、では、どれだけ、自分自身の程を知っているでしょうか。お互いは、身の程を知ったら、神様に頼らずにはいられないお互いなのです。

 「君、信心しないか」「いや、今、何にも困っている問題がないから」。こんなことを、平気で言う人がありますが、それは、自分の立場、相場が分からないから、こんなことが言えるのです。こんな人は、朝顔にも劣った身の程知らずです。

あの蛸(たこ)をご存知でしよう。私は海辺に住んでいましたので、あの蛸からも、教えられるところがありました。ご承知のように、蛸は、敵に襲われますと、煙幕のように墨を吹いて、行方をくらますよりほかには、自衛する武器を持っていません。それで、奴さんは、藻(も)の中へ入れば、全身が藻の色になり、岩にくっつくと、全身が岩の色に変わるといったように、その色を変えるし、岩に巣くえば、きちっと戸を閉め、岩がなければ、石を集めて巣をこしらえるという調子で、敵から襲われないようにして、自分一身の安全を保っています。

 お互いは、この蛸のように、なすべきことをきちんとやっているでしょうか。頼りない自分であるのも知らず、頼るべきものに頼らないでわしが∞おれが≠フ我≠押し通せるように思っていましたら、蛸の方が、お互いにとって、信心の先生であると言っても言い過ぎではありません。

ところでお互いは、頼りないものですから、「頼るべきものに頼らなければならない」と聞かされ、「頼れ、頼れ」と言われましても、その頼るべきもの、頼らせてもらうものが、頼りないものであったら、心細いことです。頼りにするものは、頼りになるものでなくてはなりません。お互いの信心させて頂く神様は『金のつえ(杖)をつけば曲がる。竹や木は折れる。神をつえ(杖)につけば楽じゃ』と仰せられています。このとおり天地の神様は、頼りないお互いが、真に頼らして頂ける親様なのですから、この親様を放っては、ほかにお頼りする神様がないということになってきます。

 わが天地の親様は、生神金光大神様の『もと(本)を執っで道を開く者は、あられぬ行もするけれども、のちのちの者は、そういう行をせぬでも、みやすうおかげを受けさせる』という、容易ならないご信心によって、生神金光大神様がお互いにお引合わせ下された、お互いの『本体のおや(大祖)』である親様であります。立教神伝に『このかたのように、実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間に、なんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ』とあるのでも分かりますように、天地の親様が、生神金光大神様にお頼みになって開けた道が、この金光教という道です。

 ですから、このお道は、天地の親様の「氏子が助かってくれるように」との願いそのものです。私は初めて、御教えを読ませてもらった時、情けないことに、そこまでの目が開いていませんでした。ですから、「なんだ、これは、まるで格言集のでき損ないみたいなものではないか」と、失礼なことを言いましたが、長い間、そんな目で、御教えを見ていましたから、私は助かるにも年月がかかりました。お互いは、これは親神様が、氏子にかけられる願いであるということに心をおいて、御教えを見させて頂かなければなりません。

 天地の親様が、随分お悩みになっておられたのですが、生神金光大神様が、お道をお立てになって、「これで神が助かった」と仰せられたことによっても、そのお喜びのほどが、ひと方ならぬものであることが分かります。

 昔から、この世のことを苦の世界だとか、ままならぬ浮き世と言っています。それで、そういう世の中を渡るには、どうしたらいいかと言いますと、「まあ、この世の中は、苦の世界で、ままならんのだから、あきらめておきなさい」と、こう教えてます。が、私からみますと、これはあまりにも虫のいい考え方だと思います。果たして、この注文通りにいくでしょうか。私はそうはいかんと思います。

 なぜなら、こっちは、どうにもならないので「仕方がない」と言って、あきらめるにしましても、先方が、こっちのおあつらえ向きに、あきらめてくれないからです。「家賃払えん――あきらめておこう」「そう、では私もあきらめましょう」と言って、家主が、そのまま引きさがってくれるでしょうか。「米代払えん――あきらめておくれ」「それなら、私もあきらめましょう」と言って、米屋が文句なしに承知するでしょうか。そうゆけば、すこぶる、将がよいのですが、そんなことを言って、この世は渡れません。それで、すらすらと片がついていきましたら、誰も世渡りに苦労したりなどいたしません。

 では、どうしてこの世が、そうまで苦の世界、悩みの世界なのでしょう。それは、肉身の親は分かっていますが、『本体のおや(大祖)』である親様が分からず、精神的に、みなし児であるからです。みなし児のことを寄る辺なぎさの捨小舟≠ニ言いますが、みなし児ほど、哀れなもの、寂しいものはありません。頼るべき親様が分からなければ、心配が絶えないのは当然です。とても、やり切れない思いにさいなまれるのは、言うまでもないことです。

 ところで、仕合わせなことに、お互いは、生神金光大神様がお出まし下さったおかげで『本体のおや(大祖)』である親様のお言葉が、詳しく聞かせて頂けるようになり、親様のお悩みがどこにおありになるかということが、はっきり分からせて頂けるようになりました。「こうして、おかげを受けてくれよ。こうして世の中を安らかに渡ってくれよ」と、おっしゃる。お互いの望むところを、神様の方から願っていて下さるのです。子としてのお互いの願いは、ただお互いの願いだけにとどまらず、親様としての、神様のお願いであるのです。子の願いと親の願い、親の願いと子の願い、この二つは、どちらからしても、二にして一であります。
 だから、お互いの願いを、神様の願いに添うて、神様の願いのなかに成就させて頂くことが、何をおいても大切なことであって、そこで初めて、お互いは、親様に会わせて頂けます。そして、「こんな有難い神様があるのか、親様があったのか」ということが分からせて頂けるのであります。

 肉親の親が、もし大臣でもしていましたら、お互いはきっと「ぼくの親は、何々大臣をしている」と言って、自慢するでしょう。そうでなくても、その昔、大名ででもあろうものなら、昔の話を持ち出して、誇らしげに語るに違いありません。親が立派であったら、それが自慢したいのが人情というものでしょう。

 お互いの親様、お互いの『本体のおや(大祖)』である親様は、そのお徳は天地に満ちわたり、お互いを生かさずにはおかん≠ニ、お生かし下されてある親様です。この親様を信心させて頂き、この親様を、はっきりつかまえさせてもらったら、これほどうれしく、安心なことはありません。で、お互いは、ここのところが分かれば、この世がこのまま極楽ということになります。

 お互いの信心は、死んでから、仏様になる稽古をしているのではなく、生きている間に神様になる稽古をしているのです。生きている間に助からないで、死んで助かりそうなはずがありません。どうでも生きている間に、極楽へ行っておかなければなりません。そうなれば、ままならぬ浮き世≠ェ、ままになるこの世≠ニなるおかげも蒙れるのです。

 お互いは、仕合わせなことに、お道の信心を頂いたことによって、本当の親様に頼らせて頂くことができたのです。頼らせて頂くべき親様に、頼らせて頂くことができたことは、何とお礼を申していいか、適当な言葉を見い出すことができません。それが心からお礼を申しあげられないようでしたら、口では頼っていると言いましても、まだ本当に頼っていない証拠です。本当に頼っているなら、本当にお礼が申せるはずです。

 頼るべき親様に頼れないのは、それだけ、まだ自分自身がどんなものかという、自分の正体が分かっていないばかりか、そういう自分に、神様が、どんな思召しで向かっていて下さるかが分かっていないからです。この調子では、いつまでたっても、目先だけのおかげの線にとどまっていて、末始終安心のおかげということになるのは、むずかしいことであります。

(この「我が信心の歩み」は、2007年6月に掲載されたものです)
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