「我が信心の歩み」 (連載第25回)


[二十五]  心配する心で信心をせよ


 以上ながながと、「身の程を知る」について、お話しさせてもらいましたが、お互いの信心は、それが分かってこないと、安心立命のおかげが頂けないので、詳しく申したのですが、私自身、なかなかそのようにはまいりませんでした。
 私自身、頼るべき親様に頼りきれない自分であリ、おすがりすべき親様にすがリきれない自分でありましたから、いつも心の中は、心配でいっぱいになって、信心一筋とはゆきませんでした。口はばったい言い方ですが、『心配する心で信心をせよ』というような、気のきいた信心のできる人が、このうちに何人あることでしょう。この教えは、聞いでできない教え、分かってできない教えといってもいい御教えかと思います。病気などなら、そこが割合、楽にできないものでもありませんが、複雑な事にぶつかりますと、いつも、足元がよろけて、ふらふらになりがちで、言うはやすく、行うはむずかしい御教えです。「さあ、えらいことになってきた。困ったなあ」と、二、三ベん頭をふって考えたら、もうだめです。「困った」が、頭にこびりついたが最後、御神前に座って、いくらお願いしましても、願いが願いになってきません。 一方では、「心配してもだめだ。……神様どうぞ」と、お願いの頭は垂れていながら、心の中では、「困ったなあ」と、心配が頭をもたげてきます。そして、神様にお願い申し上げたことを、打ち消してしまうので困ったものです。
 とにかく、事が起こって、頭をひねり手を組んで考え込んだら、もう手錠(てじよう)がはまったのと同然です。心配が頭にこびりついて、少々のことではとれません。御教えの中に、『事があった時は、おかげを蒙る時がきたと思え』とありますから、事があったら、「さあきた。おかげを蒙る時がきた」と、腹をすえて、「神様どうぞ」と向かってゆけばよろしいのですが、金銭上の心配事となりますと、当時の私は、それに心がとらわれてしまって、そうは簡単にいきませんでした。

 信心と心配とは、別々のものです。信心するか、心配するか、どちらか一つしかできません。それを一緒にするので、ややこしくなるのです。信心しているなら、心配はないはずです。信心して心配しているのなら、信心しているとは言えません。ところが、実際となると、ここが分かりにくいところで、これがはっきり分かったら、信心は一人前です。
 商売をしていると、節季の払いが気になります。心配ですから、月の初めから、「商売繁盛のお願い、月末支払いのお願い」を続けます。ところが、月末が近づいてきて、おおよそ集金がいくら、支払いがいくらと、勘定が見通せるようになると、ご祈念していましても、「都合よく掛けが集まるかしらん。払いに対して、集金が六分集まって、何円足りない。八分集まって、何円足りない」と、胸の中は、心配のソロバンばかりはじいております。
 「足りないようであれば、そのつもりをしておかねばならん。どこで工面して来たらよいかしらん……。いや、神様にお願いしておきながら、こんなことを考えてはいけない」と気を取り直し、「神様、どうぞ」と、またお願いすることになりますが、こんな調子で、一晩中同じことを、果てしなく繰り返しているだけでは、さっぱり、神様にお願いしていることにはなってきません。
 それで、二十九日の晩になると、ようやく腹が決まります。では、どう腹が決まるかと言いますと、「いろいろお願いいたしましたが、やっぱり、あなたは頼りになりません。いくらいくら足りません。その不足は、私が心配して、どこかで借りてきますから……」。もっと格好のよい言葉で、神様に申し上げているかもしれないが、何のことはない、腹の中はこんなものです。月の初めから、やいのやいのと言って願うのはよろしいが、月初めから、願い続けていたことを、月末には、さあっと全部帳消しの、お断りをしてしまって、自分で心配するようなことになります。これでは、何をしていることやら、わけが分かりません。こう言いますと、阿呆陀羅経(あほだらきょう)の文句のように、こっけいに聞こえましょうが、本人は大まじめに、毎月毎月、こんなお願いの阿呆陀羅経を繰り返したもので、私の信心は、なかなか、『心配する心で信心をせよ』には、なってきませんでした。

 どの方面から考えましても、「わしが世渡りする」ということほど、危険千万な無茶なことはありません。お互いは、よくよく自分というものが、無能無力なものであって、頼りになると思っていた知恵分別が、どんなに頼りないものであるかを悟らねばなりません。うかうかしていますと、自分がなった縄で、自分の首を締めるようなことになります。それが分かったら、わしが∞おれが≠ナやっていることが、気違いざたにも等しいことが分かるはずです。

 私はみなさまに恐怖心を値え付けるようなことを言いますが、お互いは、一寸先が真っ暗です。いや、まぶたを閉じてごらん。まぶたを閉じたら、すべてが真っ暗です。これが、お互いの知恵分別の正味のところかもしれないのです。『天地のことは、人の眼(まなこ)をもて知りて知りがたきものぞ。恐るべし恐るべし』『障子一重がままならぬ人の身ぞ』と、御教えでも、このように仰せられているのですが、しかし、お互いは、こんなに真っ暗のなかを、何でも勉強勉強といって走らねばならないのですから、まじめに考えたら、とても危なくて不安でたまらないはずです。
 ちょっとお互いの身体についてみましても、それは、土でこしらえた舟のようなものですから、どうして安心ができましょう。そのもろい泥舟を、浮き世という荒波の上に浮かべて、ギッコンギッコンとこいでいるのです。いつ、どんな嵐に見舞われて沈没するやら、岩に突き当たって難破するやら分からず、お互いは、とても安心できない状態です。
 本当に自分というものの姿が分かったら、「わしが世渡りする」なんて、そんな身の程を知らぬ、だいそれた口はきけないことが分かります。そこで、自分が、そんな自分であることが分かりますと、さて、そういう自分は、一体、どうしたら立ち行くかということが、真剣に問題になってこなければなりません。

(この「我が信心の歩み」は、2007年7月に掲載されたものです)
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