「我が信心の歩み」 (連載第26回)


[二十六]  心配する心で信心をせよ(2)


  ところで、このお道では、「この世は、そういう世の中なのだから、そういう世の中だと、あきらめなさい」とは教えません。天地には、親様がござるのだから、一切の心配不安は、この親様に渡してしまうがよろしい。親様が、よいようにして下さるから、何も頭を痛める必要はありません。

 ところが、私の場合、それがすらすらといったかと言いますと、そうではありません。何か事に当たるたびに、思い直し、考え直して、改めるべきを改めながらも、このぶんで進んだら破産するよりほかはないという、最後の土壇場(どたんば)に追いつめられるまで、自分を引きずり回し、自分を苦しめ通してきた腕≠、放らねばならないことだけは、気がつかなかったのですから、このわしが∞おれが≠フ我≠なくすことは、容易なことではありませんでした。

 さきに私は、いよいよだめだという、最後の瀬戸際に立って、「今日までの自分は、神様を拝んでいたのではなく、自分の腕を拝んでいた。神様を信じていたのではなく、自分の腕を信じていたのだ」と気がつき、それを神様に、お詑び申し上げたということをお話ししましたが自分の腕を拝み、自分の腕を信じたということは、自分の知恵分別を子分とするわしが≠ニいう我≠フ親分を、頼りにしていたのでありました。私を苦しめた腕とは、実は、知恵分別の総元締めであるわしが≠ニいう我≠ェ変装したもの、いや、我≠サのものであったのであります。

 それなのに、それがなかなか容易に気づかなかったのですから、腕を過信したが最後、我≠ニいうつき物から逃れることは、なかなかむずかしいのです。私は、私の腕がどんなに恐ろしい腕であるかを知らされました。身の毛もよだつほどの最後の行きづまりで、やっと、我≠ェ、何の役にも立たないものであることを、神様の前で、しみじみ知らせて頂いたのであります。

 またその時、神様から『天職』という教えを頂いて、はっと「自分の仕事は、神様、あなたのお仕事」と気づかせて頂き、今までの自分は、神様のお仕事を、わしが∞おれが≠フ思いで、横領していたことを悟ることができました。

 そこまで突きつめさせて頂いたからこそ、自分の正体を知り、腕を放ることによって我≠ェ放れることになり、神様の懐へ飛び込み、親様との対面もかない、『信心しておかげを受けて呉れよ』という思召しの真意が、分からせて頂けたのであります。

それで、この我≠放れた境涯に、私が入らせてもらったのは、信心し始めてから、十三年目のことなのです。自分の正体がどんなものか、その甲斐性のなさ、頼リなさが分かるまでには、さんざん頭を打ったり、腰を砕いたりしなければなりませんでした。

 私は、さきにも話したように、何か事があると、その度ごとに、それは、何のご無礼、何の心得違い・取り違い・間違いからであろうかと、自分を振り返ってみて、考え直すべきを考え直し、改めるべきを改めさせてもらってきたものですが、むしろ、それは枝葉末節のことであって腕≠ノ思いいたるまでは、その根本の我≠ニいうことにも、何等思い及ばずして放ったままになっていました。私は、最後の行きづまりで、腕を放らなければならないようになり、そこで、いやおうなく、行きづまりのもとであり、根である我≠放らなければならないことになったのであります。

 御理解に、『こり(垢離)をとるというが、からだのこり(垢離)をとるよりは、心のこりをとって信心せよ』とありますが、ここで、私の信心の一番大きく、一番最後のこり≠ナあった我≠ェなくなったのです。改まり≠ニ言うことから申せば、これが、最高の改まりでありました。そこで、私は初めて、神様を「自分のご主人」としてお迎え申し、お祀り申すことができ、何の心残りもなく、自分の腕にさようならを告げ、『神をつえ(杖)』として、全身全霊でもって、神様に打ち込んでゆけるょうになりました。

 昨日までの自分の行き方は、間違っでいたのです。自分の仕事と思っていたのは、あなたのお仕事≠ナした。自分は、ただ一生懸命に奉公すればよいのです。昨日までは、自分にそれだけの甲斐性がないくせして、甲斐性があるように思い、一切の責任を自分で背負い、何も彼も自分で切り回せるとうぬぼれて、あれこれと心配してきたが、何という身の程知らずの、ばか者であったことでしょう。

 仕事は、神様のお仕事です。自分は、そのお仕事に、奉公の誠をささげることです。そうすれば、全責任は神様が持って下さるのです。私は神様をまるまる信じて、商売はもとより世帯から借金にいたるまで、みんな神様にお渡し申して、神様に使って頂く奉公人にならせて頂くことになりました。この時から、私の信心は、がらりと変わってきました。そこで、今までと比べて、すべての生活の段取りが違ってきました。

 もう、自分というものを、たいそうに見積もったり、おれが商売しているという根性を、抱いていてはだめです。「神様を主人として、神様に自分を使って頂く」という心持ちに、なり切らなくてはなりません。「どのように、おれがという意地を張っても、たてついてみても、何の甲斐性もあるものではない」と、このように深く肝に銘ずると、それからの私は、神様を主人と仰ぎ、親方と仕える奉公人になりました。昨日までの商売は、私の商売でしたが、もう、今日からの商売は、私の商売ではありません。神様のものは、神様に返さねばなりません。神様のものは、神様に渡すべきです。私は、すべてのものを神様に返し、神様に渡しました。これからは、すべてが、神様のなさる仕事です。

(この「我が信心の歩み」は、2007年8月に掲載されたものです)
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