「我が信心の歩み」 (連載第27回)


[二十七]  心配する心で信心をせよ(3)


  私は、奉公人の立場において、神様から使って項くのです。「あなたの家は、家族が何人で費用がいくらいくらいります」。こう申し上げたら、そのまかない一切は主人である神様がして下さるのですから、奉公人の私は、ただ一心にお願い申して、主人、親方のお気に入るよう働くだけで、節季がこようが、掛けが集まろうが集まるまいが、私は責任を持ちません。そこの工面・配慮は、親方の受持ち範囲にあることですから、私が出しゃばることはありません。

 私としては、努めるだけ努めたら、それでおしまいです。月末の払いが一万円あれば、祈りによって一万円の〃願いの伝票〃を、親方に出しておきます。集金が五千円しかなかったら、親方は「五千円で払え」という思召しでありますから、五千円で支払いをして、残リの分はまた、祈りで〃願いの請求伝粟〃を出しておきます。 それまでの自分でしたら、頭をひねって、「こら困った。半分しかない」というところですが、奉公人としての私には、そんな心配はしなくてもよいのです。私は、奉公人としての本分を尽くすーー祈りと勉強があるのみです。私は、主人に借金を背負ってもらったのですから、しばらく、借金を断る役を仰せつかりました。しかし、私には払う力がなく、神様に背負って頂いた借金ですから、もう奉公人としての私が、心配する必要はなくなりました。心配するのは、親方の役なのです。

 ところが、有難いことに、借金を断る役も、三カ月で免除れました。家内∵が、もう、お金では心配しません」と言うようになりました。お金がいる時には、差し支えなく回ってきますので、もうお金の苦労をしなくてもよいようになりました。そして、商売の方もおかげを蒙り、借金もすっかり返し、資本もできて、月々、お金が余るようになってきました。この残りをどう始末したらよいものかと考えた末、残りは「給料としで頂きます」と、神様に申し上げて、家内に「これ、しまっておきなさい」と、しまわせておくことにしました。

 しかし、そのお金では、決して着物を買いません。奉公すれば、仕着せは、主人、親方からくれます。神様に、私はお仕着せで奉公しているのです。もらった月給で、別に着物を買わなくてもよいのです。神様は親様です。食べさせ、着させて下され、一切のものを恵んで下さる親様です。親様に任せておきさえすれば、食べられるだろうか、着られるだろうかというような心配は、さらさら無用です。神様が責任を持って、食べさせ、着させて下さるのです。

 これは、皆さんにも同じことが言えるのです。お互いは、仕着せで奉公しているのですから、神様が食べさせ、着させで下さるのです。それが当然なのです。奉公人は、奉公人らしく働いて、主人の気持ちに、ぴったり合うようにやってさえいれば、主人からは月給を下さり、その月給も上げて頂けます。もし、月給がもらえなかったら、それは、その働きようが悪いからです。もし、食ベられないというのであったら、それは、お暇が出でいると考えなければならないと思います。

 ある年の正月のことでした。私としましては、どんなに月給を頂きましても、世帯は、神様にまかなって頂いているのですから、何事につけても、いちいちお願いしないではいられません。

 私は、神様に「家族一同に、身分相応な正月の着物を買わせて頂きます。どうぞ……」とお願いして、買わせてもらいました。ところで、その場合、着物を買っただけのお金が、その月の末に、月給で差し引かれるようなことになりましたら、「お前には、着物を買ってやらん」ということになりますので、その時には、そんなことなら、この身体に、猿同様に毛を生やして下さい」と言うつもりでしたが、商売の方に何の差し障りもなく、月給は月給できちんと頂きましたので、恐れ入りました。
(この「我が信心の歩み」は、2007年9月に掲載されたものです)
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