「我が信心の歩み」 (連載第28回)


[二十八]  心配する心で信心をせよ(4)


犬や猫はどうです。みんな、神様のお仕着せです。私は、神様の奉公人です。必ず、神様が仕着せを下さるに違いありません。いつか外出先で、蛇の脱いだ皮を見て、「ははん、やつもお仕着せだなあ。新しい着物と、着替えさせてもらったなあ」と、うなずいたことがありますが、ここが分かったら、何の憂いがありましょう。商売で倒されても、「あゝ、また神様が倒されなさった」で、平気です。が、「こんな家へ、品物を売って、どうかしらん」と思いながら、売って倒されますと、それは、奉公人としての失敗ですから、争われないもので、きちっと月給で差し引かれました。

 こうなりますと、私の気分は、がらりと変わってきました。それまでは、金、金、金で、のどから手が出るほど、お金が欲しくてたまりませんでしたが、もう欲しくなくなりました。それまでのように、目先目先の物のとりこになって、何が欲しい、かにが欲しいとやっきにならなくても、思うままのおかげ、言うままのおかげを蒙るようになり、安心させて頂けるようになったからであります。

 そうなりますと、さきに月給として頂いていたお金の始末に、困るようになってきました。私の世帯は、散髪一つするのも、下駄一足買うのも、みんな神様の会計である営業資金のなかから出るのですから、月給がいくらたまっても、その使い道がありません。そんな月給を蓄えておくのは、月給という名で、お金を自分のものとして抱きかかえているということであり、まだそこに我≠ェ残っていることに気づきましたので、それまでに、たまっていた月給の全部を、神様に返すのが本当だと思い、営業資金に繰り入れ、それで、何の不安もないようにならせて頂きました。

 私には、もう自分の力で、どうしなければならない、こうしなければならないというような気持ちはありません。至極安楽の境地――これが極楽ではないでしょうか。ここで、私は、『心配する心で信心をせよ』といわれる御教えが、初めて分からせて頂けました。お互いが助からないのは、神様の責任を自分の責任として、かついでいるからです。お互いは、おかげを受けるという責任だけ引き受けたらいいのです。

 祈りというもの、願いというものは、神様に、おかげの請求伝票を切ることです。お互いは、神様のおかげで生きられ、何から何まで、おかげでさせて頂いているのですから、おかげが切れないように請求するのは当然です。

 お互いは、この身を自分のものと思うから、おれが!の間違いが起こってくるのです。わが身は、わがものでありません。神様のものです。そうだとすれば、その身を使ってする仕事は、神様の仕事です。しかも、それは、人間が自由にすることのできない世渡り、人間の力では、やりおうせない仕事なのですから、神様がやって下さるのが当然で、お互いは、それに使って頂くより道はないのです。ここが分かれば、お互いには何の心配もなく、ただ自分の役前だけのことをしておれば、後はしかるべく、よいように神様がして下さるのです。

 以前、私の信心友だちが患いました。長いこと顔を見せませんので、見舞いに行きますと、私の顔を見るなり、泣いていました。目も当てられないほど身体もやつれていました。
「蚤(のみ)にも食わさない身体なのに、どうしてそんなにやせたのか。そんなに泣きなさんな。苦しいのか」
「ひどく苦しい」
「それで泣くのか」
「ばからしい。そんなことで泣いているのではない」
「では、なぜ泣くのか」
「有難くて泣いているのだ」
「うそをつきなさんな。苦しいのだろう?」
「苦しいことは、よっぽど苦しい」
「それで、あの世と、この世のさかい目ぐらいで、立ちん坊して、泣いているのだろう?」
「だから有難いのだ。これほど一生懸命にお願いして、信心させて頂いているのに、これくらい苦しいのだから、もし信心させて頂かず、お願いしなかったら、親も家内も子供も、残して死なねばならないところだった。それを思うと、有難くて泣けてしまう」
「それで泣いているのか」
 私は「さすがになあ」と感心させられましたが、有難いということも、ここまで、こなくては、本物ではありません。肉体は患っていても、心まで患ってはいませんでした。神様の思召しが、ここまで分かれば、もう助かりです。

 すべてが有難く受けられないのは、本当に神様の思召しが分かっていないからです。神様の思召しが本当に分かってくれば、すべてが有難くなってきます。すべてが有難くなってくれば、一切万事が自由になってきます。これが極楽、これが喜びの天地、これが安心立命です。
 折角、信心をさせて頂いても、ここが分からなかったら、うなぎ好きが、うなぎ屋の前を通って、においをかいで、うなぎを食べたといい、飲み助が、酒屋の酒だるを見て、酒に酔ったという程度のおかげに、終わるのではないでしょうか。

 それから三年のち、私は布教所を持たせてもらい、その時も、お金五円と、お米一斗五升を持っただけでしたので、「そら無茶だ」と、友だちを心配させたものです。(第廿二章に詳述)そんなことができたのも、信心させて頂いてから、十三年目に、極楽を見つけさせて頂き、有難いことに思うままのおかげを蒙って、生活上の不安を感じなくなっていたからです。

 それで布教当初から、信者さんから、「どうにもこうにもやってゆけませんが、どうしたらよろしゅうございましようか」と、相談を受けますと、いつも「奉公したらよろしい。そうすれば助かります」と言い、奉公≠ニいう行き方を伝えて、これでいけます」と、太鼓ばんを押すように言いました。それは私自身が、その通りに救われ助けられたからです。

 御理解に『天地金乃神といえば、天地一目に見ておるぞ。神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心をださねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ』とあります。十分なおかげを蒙る話が出るたびに、よくこの御理解が引き合いに出されるようですが、『死んでもままよ』というのは、なにも文字通りに、死んだ思いにならなくては……と、堅苦しくとるには及ばないと思います。平たく言いましたら、お互いのためにご心労くださる親神様の思召しを悟って、おれが≠ニいう我≠振りたてていないで、一も二もなく、「どうぞよろしいように」と、親様の壊に飛び込み、腕に抱かれたらよろしいのです。それだけのことであります。

 もし、ここに今、綿入れを着ているが、だんだん暑くなってくるので、単衣(ひとえ)がいり、浴衣(ゆかた)もいるが、さてどうなることであろうと、自分ひとりで心配している子供があるとしたら、どうでしょう。それは、親のある子供でしたら、しないでもいい不必要な心配です。子として「困ったことだ」と、いくら心配してみても、どうにもならないのですから、その心配は、あけすけに、親に「これから暑くなります。どうぞこれこれ、こうして下さい」と頼めばよいのです。そうすれば、親は「そのことなら心配しなくてもよろしい。お前には、私という親がついているのだから、少しも心配することはない」と言ってくれるに決まっています。お互いと神様との間柄も、この子供と親との間柄そっくりです。

 神様は、一切のものをお恵みくださるお互いの「本体のおや(大祖)』であります。心配は、みんな親に申し上げたらよいのです。親は、きっと何とかし下さいます。そこに、親の心配があるのです。ですから、お互いは余計な心配をして、頭をひねって、うろたえてはなりません。御教えにも『氏子に心配ということはないはずじゃ。もし心配があると言うのであったら、それは勝手に心配しておるのじゃ』と仰せられていると聞いています。

 いくら心配しても、最後にはどうにもならない、無力なお互いです。心配は、神様に渡すことです。親が「抱いて、連れて行ってやろう」と言うのに、子供が「いや、私が歩く」と言ったら、どうなります。危ない足どりで歩くより、楽々と運んでもらうことです。お互いは、お互いを生かして下されている、大きな天地に頼らせて頂くのです。この天地以外に、頼りになるものはないのであります。

(この「我が信心の歩み」は、2007年10月に掲載されたものです)
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