「我が信心の歩み」 (連載第29回)


[二十九]  おかげはわが心にあり(1)


 教派・宗旨によって、そのたてまえが違うので、「神や仏に、あんまり欲なことを願うものではない。現世のこと、物質のことを願うのは、それは間違っている」というのがあるようですが、本教では「願え、何でも願え」と教えられております。

御教えにも『天地の間に住む人間は、神の氏子。身の上に痛み・病気あっては家業できがた(難)し。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、午・馬にいたるまで、氏子身の上のこと、なんなりとも、実意をもって願え』ということになっております。もう一歩進んで言いますと、お互いが、自分自身の立場が分かり、何をするのにも、神様に足して頂かなければ立ちゆかない自分であることが、はっきりしてきますと、〃お願い〃ということは、「願わなければならないもの」というような余裕のあるものでなく、一切万事、神様のお力添えがなくては、立ちゆかないのですから、「願わずにおれない」ものです。

 信心のない人でも、〃神様〃とはっきり自覚していなくても、人間は、いつでも祈っているのです。人間を、宗教的動物だというのも、それがためでしょう。望みや目的のあるところには、誰でもきっと祈りがあるものと思います。

 以前も、さも得意そうに「私には、何にも願うことはない」と言う人がありましたが、私から見ますと、その方は、自分というもの、世間というものに無知だから、そんなことが平気で言えるのだと、お気の毒に思いました。今日は元気でも、明日はどうなるか分かりません。今日は万事都合よいからといって、明日もそうだとは決まっておりません。働いたらきっともうかるかというと、かえって損をすることもあるのです。

 自分の腕でさえも、自分の思うように動いてくれないことがあるのです。自分では、何でも自分の方へかき寄せようと、手を内側へぐるぐる回しているつもりでも、することなすことがさかさまで、外側へ外側へ追い出していることがあります。そんな頼りない自分であることが分かりましたら、どうして「私には、何にも願いはない」などと、言うことができましょう。

 教祖様は『なにごともくぎ(釘)づけではない』と仰せられていますが、何事も釘づけでないから、いつ何時、離れてしまうか分かりません。親がある、子があるといっても、金銀財宝があるといっても、みんな釘づけではありません。明日はおろか、今日も、いや、一寸先が真っ暗です。

「私には、何の願いもない」などと、太平楽を言ってはおれません。
 〃かなわぬ時の神頼み〃といって、倒れてから願う人は多いが、少しでも、親や先祖や子孫に対して、自分の負うている責任を考えてみましたら、まず、自身の安全を祈らずにおれないはずです。御教えに『家の中に住んで、十重二十重に戸締りしておっても、信心がなかったら、野中に寝ているようなものじゃ』とありますが、どんなに戸締りしていても、盗難は逃れられても、夜中に隣が火を出して、丸焼けにならないとは請け合えませんし、いつ何時、病気・災難、不都合・不仕合せがやってくるかも分かりません。とても不安なもので、野中に寝ていて、いつ悪漢におそわれるか、猛獣毒蛇の危害を受けるか、びくびくし通しでいるのと、何ら変わりはありません。それが分かったら、どうして神様のお守りを願わずにおれましょう。

 『障子一重がままならぬ人の身ぞ』『まめなとも信心の油断をすな』の御教えの通りです。お互いの願いは、決して無理を言っているのではなく、当然すぎるほど当然なことを願っているのであり、願わずにおれないことを願っているのです。

 そこで、どんな人でも、願いのないという人はないずです。「健康で世渡りがしたい」「家を富ましたい」「家庭は円満でありたい」「子供を一人前に仕上げたい」と、数えあげたらきりがありません。「私には、何も願うことがない」と言う人でも、五つや六つの願いは、持っているはずです。私は、これを人生の祈りと言っています。ところで、お互いには、このような数々の願いはありますが、この願いを、願い通りに成就できるだけの力があるかといいますと、だんだんお話ししてきたので分かってもらえたと思いますが、お互いには願いはあっても、それを成就できる
だけの力がありません。

 それでは、どうしたらよいかとなりますが、信心のない者には、その行き方が分かりません。いや、信心があるといっても、中途半瑞な信心では、そこがなかなか分かりません。そこで、大抵の人は、何とかその願いを成就させようというので、〃わしが〃〃おれが〃でやり抜こうとします。しかし、それができるかと言いますと、さきにも言いましたように、めったにできるものではありません。

 それができるためには、どうしても、その願いを神様にまで持ってゆかなければなりません。金光大神様が『生きた神を信心せよ。天も地も、昔から死んだことなし。このかたが祈るところは、天地金乃神と一心なり』と、仰せられてあるのは、お互いに、お互いの願いをどこへ持ってゆき、どこでおすがりしたらいいか、その向かうべき目標をお示し下さったものと思われます。
(この「我が信心の歩み」は、2007年11月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧