「我が信心の歩み」 (連載第30回)


[三十]  おかげはわが心にあり(2)


 昔から、身体は病の入れ物だといわれています。お互いは、どんなに衛生に気をつけ、養生に努めていても、いつどうなるやら分かりません。とうてい、病み患いから逃れることはできません。そして、病気になったとなれば、親には心配をかけ、家族には迷惑をかけなければなりません。その上、そんなことであっては、社会に対する務めも果たされません。患う自分はあきらめるとしても、親や家族があきらめてくれません。子として、どうしても、親に安心と喜びをお供えし、また、世のお役に立たなければなりませんが、身体が弱くて働けなかったら思うようになりません。

 お互いは、この責任を果たすためにも、『体のじょうぶ(丈夫)を願え』『体を作れ。何事も体がもと(元)なり』。その元である体の丈夫を願い、体を作らせて頂かなければなりませんが、残念ながら、自分にはそんな力を持ち合わせておりません。それにつけても、お互いは、自分の持ち切れない責任を神様に持って頂き、神様にお願い申しおすがり申して、その責任を果たさせて頂くよりほかはありません。

 商売でも同じことです。商売といいますと、もうけるためにやっているのですが、もうかるやら損するやら、やってみた上でないと分かりません。どちらになるやら、分からないことをやっているのです。

 私は、以前、精出して田を耕しているお百姓さんに、植付けから草取り、引き水から肥料をやること、いろいろと米をつくる苦労のなみなみならぬことを聞いてから、「それだけ骨折ったら、今年は豊作ですなあ」と言いましたら、「そんなことが分かってたまりますかい。あんたのような人は、あっちへ行ってくれ」としかられたことがあります。五月に植付けして、引き水、草取り、肥科と一生懸命働いて、豊作か不作かは、鎌入れをして、収穫をしてみないと分からないのですから頼りないものです。もし不作であったら、手数も肥科も入れただけ、きっちり損になります。といって、手をこまねいていてはどうにもなりません。

 つまり、やってみないことには分からないのです。商売もまたそうです。もうかるやら損するやら、やってみないことには分かりません。それでも百姓さんなら、今年は不作で損をしても、田地ぐるみ損をするようなことはありません。来年、また同じ所で作物はつくれますが、商売となるとそうはゆきません。一ぺん失敗したら、元も子もなくなって、取り返しがつかなくなるのですから、乗るかそるか、危険千万です。商売も一六勝負と大差ありません。

 と見てきますと、実際お互いのすることは、危険なことばかりで、危ない世渡り綱渡りといってもよろしい。すべって落ち、ころっと転んだら最後、致命傷です。だからといって、やめるわけにはゆきません。やめようと思えば、やめられないことはありませんが、何もせずには生きてゆかれません。霞(かすみ)を吸って生きている仙人なら知らんこと、ぶらっとしていても、鼻の下に食物を運ぶのをやめるわけにはゆきません。危険だから手も足も出ないと言って、手を袖にしてながめていることは、絶対に許されません。命に関係する大きな間題ですから、放っておくわけにはゆきません。

 そこで、このことが本当に分かったら、お互いは、どうするのが本当でありましょう。自分には、それを安全に乗り越え、乗り切る力がないのですから、神様にお願い申しおすがり申して、一切万事、神様に責任を持って頂き、安全に世度りをさせて頂くよりほかありません。これが、このお道の祈りというものです。

 天地の動きに対して、人々は、これを宇宙の原動力と言い、神秘だとか、玄妙だとか、不可思議だとか、いろいろに言っていますが、お道では、これを『天地金乃神様のお働きである』と教えられています。天地金乃神様とは、この大天地をまる生かしに生かしておられる神様、お互いをこの天地に生み出して下さった神様、そしてお互いをお養い下さっておる神様、すべてを恵み生かして下さっている神様であります。

 よく世間では、この世をままならぬ浮き世と言っていますが、それは、神様がこの世をままにしていなさるからで、お互いのままにならないのは当然であります。お互いの信心させて頂いている神様は『生きた神様』で、この神様にお頼り申しおすがり申して、自分たちの責任を果たさせて頂こうというのです。その祈りが聞き居けて頂けるのは、当然至極のことであります。

 このような次第で、信心というものが、この願いというものから生まれてくるものとしますと、願いというものは信心の心臓、信心の生命であります。自分の思い通りのおかげを蒙ったからといって、願いを放ってしまったら、信心の生命が切れてしまい、信心が死んでしまいます。それで、どうしても、願いというものは放れないものです。
 分からない人になりますと、最初に自分の願い通りにおかげを蒙るか、または目先におかげが現れてくるかすると、大抵、信心の生命がなくなってきます。それはおかげにだまされて、願いを放ってしまうからです。願いを放ると、信心の生命がなくなり、おかげをなくすことになります。どうしても願いは放れません。

(この「我が信心の歩み」は、2007年12月に掲載されたものです)
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