「我が信心の歩み」 (連載第31回)


[三十一]  おかげはわが心にあり(3)

 ところでお互いは、朝に晩に、神様に向かって、いろいろのことを願っていますが、初めの間は、願っているのか願っていないのか、どうもはっきり せず、すこぶる頼りないものです。まあ大抵のところが、お願いしている尻から心配しています。「どうしたらよいだろう。一生懸命にお願いしているが、神様は聞いていて下さるだろうか。ひょっとしたらだめかもしれん。困ったことだ」。まず、こんな調子です。間題が小さければ平気ですが、少し問題が大きいと、十年、十五年も信心している人でも、願いながら心配しています。

 この間も、世話係の人々が話し合っていました。「ぼく、一生懸命お願いしているのに、先生は、〃お前はお願いが足らん〃と言われるので、さっぱ り分からない。どういうことだろう」「先生が、そう言われるところを見ると、足りないのに違いない」「では、一体どこが足りないのだろうか」。

 そこへ、私がのこのこ入って行きました。 「あんたの一生懸命は、朝五分、昼五分、晩十五分、ただ神様の前に座った時だけだ。こっち向いたら忘れている。そして、神様に申し上げたことと は正反対のことを思っている。〃あれほどお願いしたけれど、どうなるのだろう?こら困ったことだ。難儀なことだ〃。これではお願いをこわしているようなものだ。だから、足らんというのだ」。

 こう言いましたが、願う心がこんな心では、おかげはありません。こんな心に、おかげのないことは請け合いです。なぜなら、心配はわが心にあって も、おかげはわが心にないからです。御教えに『今月今日で一心に頼め、おかげは和賀心にあり』と仰せられてあるのは、ここのことだと知らなければなりません。

 神様を信じていて心配するのは、神様を信じていない心です。神様を信じてお願いして〃きっとおかげを下さる〃と、心にかんぬきがはまったら、迷 うことも、あわてることもないはずです。ところが、またしても心配や不安がわが心を占領して、お願いしながら「どうだろう?一体、神様は聞いて下 さっているのかしらん」と思うようでは、神様を信じていない心にもどってしまっている。その心には、すでにおかげはないのですから、おかげを受け ることはできません。

 どうも、お互いの願いは頼りないのが多くて、ちょうど安物の鉛筆で字を書くように、今お願いを書いたかと思うと、すぐ消えてしまいます。そんな 頼りない願いでは、本当の願いになっていませんから助かりようがありません。

 何でもお願いは、神様に一心にお願い申しおすがり申して、それ以外、何もほかに考えることがないようにしなければなりません。お願い申しおすが り申す神様は、お互いをこの世に生んで下され生かして下さっている神様です。お互いの一心が、本当に神様の方に向いていましたら、おかげの蒙れないはずがありません。もし、おかげが蒙れなかったら、こっちの行き方が違っているのです。

 先日も、ある方が参って来て「先生、どうしておかげが蒙れないのでしょう」と聞きますから、「それは調べたらいい。調べたら分かる」と言います と、「何を調べるのですか」と聞きますので、「あやまりは、自分の手元にある。自分の手元を調べなさい。受け物が悪ければおかげは漏れる。受け物 を調べてごらん」と言っておきました。おかげがなかったら、自分のあゆんでいる信心の道が違っているのです。おかげを受けてくれと、頼んでおられる神様です。どうして、おかげを下さらないことがありましょう。こちらの〃改まり〃が肝要であります。


(この「我が信心の歩み」は、2007年12月に掲載されたものです)
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