「我が信心の歩み」 (連載第34回)


[三十四]  おかげはわが心にあり(6)

2)  お相撲さんの話


 まだ大阪に、大阪相撲があった時分のことです。相撲取りの信者さんが参って来まして、「先生、明日はOOOと取り組まなければなりません。OOOは、私よりずう体が大きい上に、目方も六貫ばかり重く、力も強いし、手も巧者でだいぶ難物です。どうぞお願いします」ということです。
「負けるようにかい?」
「あほらしい。勝たせてもらえるようにです」
「それならだめだ。あんたのような思いだったら、負けるに決まっている。いくらお願いしても、めったに勝てない」
「先生、何で勝てませんか」
「勝てそうな道理がない。明日の相撲をまだ取り組んでいないのに、もう負けてしまっているからだ。あんまり負けるのが早過ぎる。あんたの心の中は〃相手はずう体が大きく、目方も上なら、力も強いし、手も巧者だ、これはとても難物だ〃という思いで一杯になっている。これでは取り組まん先から、負けてしまっている。とても勝てない」
「では、どう思ったらよろしいのです?」
「相手のずう体が大きくても、手が巧者でもかまわん。そんなことは問題にしないことだ。神様にお願い申して、ぜひ勝たして頂く。この気持ちがなくては、いくらお願いしても、何にもならない。相手の強いのがおかげだ」
「おかげって、どんなおかげですか」
「あんた方は、自分よりよっぽど強い相手に、勝たないと人気がでない。自分より下の者に勝っても値打ちがない。自分より強い者と取り組ませてもらうのは、おかげ蒙っているからだ。
負けて、もともと。損にはならん。しかし、相手は、あんたみたいな弱い者とは取り組みたくはない。勝ってみても、名前は出ない。あんたとしたら、こんな取組が、一番面白い。こんないい相撲はない。相手がどんなに強くても、お願い申して、勝たせて頂くという決心で、土俵にあがるのなら、お願いしよう」
「先生、どうぞお願いします」
「本当に、その気持ちになるか。それならお願いしよう。なあに、あれくらいの者なら、四つんばいにさせるのはなんでもない。あんたは、よほどおかげを蒙っているのだ。有難く思って取り組みなさい」
「よく分かりました。有難う存じます」
「折角、今日までおかげを蒙っていながら、それくらいのことが分からないようでは、こっちが困る。分かってきたら、なるべく強い相手と取り組ませて頂けますように、という願いになってくる。願いがそうなってきてこそ、本当の信心なんだ」
と、こう話させてもらいました。

 神様にお願い申して、おかげ頂けるのも頂けないのも、お願いする自分の心の向け方、気分の持ち方にあります。大抵、このお相撲さんが「あれは、自分よりもずう体が大きく、六貫目も重く、力が強くて、手も巧者だから、とてもむずかしい。これはだめだ」と、はじめから負ける勘定をしたように、お互いもまた、いろいろな間題に取り組んで、「神様、この問題はとてもむずかしくて、だめだと思います。負けるのは承知です」と申し上げているようなことが多いのです。何でもおかげが蒙れるように勘定して頂きたい。

 さて、そのお相撲さんは、翌日のタ方、お参りして来まして「先生、おかげ頂きまして、相手をうまいこと四つんばいにしてやりました。大きなずう体だけに、すかっとしたいい気分でした」と言っていましたが、何事によらず、お願いしておかげを蒙る心の用い方が大事です。

 これは、もっと前の話ですが、ある相撲取りが、ご本部にお参りして「金光様、どうぞ幕内に入れますようにお願いいたします」と申し上げますと、金光様は『そうじゃ、幕内に入りたければ、強い者と勝てるだけ取り組みなさい。そうすれば幕内になれますわい。次に、世渡りにも、いろいろの取組がある。病い神との取組、貧乏神との取組と、いろいろ取組があるけれど、信心が強ければ、みんな勝てますわい』と仰せられたそうですが、この御教通り、この世の世渡りは、お相撲さんの場合だけでなく、お互いもまた、日々昼夜を間わず、あれやこれやの出来事を相手に取り組んていかなければならないことになっております。そして何事にしても、「必ずおかげ頂ける」と、勝てる勘定をして取り組まなければなりません。

(この「我が信心の歩み」は、2008年3月に掲載されたものです)
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