「我が信心の歩み」 (連載第36回)


[三十六]  おかげはわが心にあり(8)

(5)    病気との取組

 病気して、熱が三十九度も四十度も出ると、ひどく心配です。「ひょっとしたら、肺炎ではなかろうか。誰それさんも死んだから、今度は、わたしの番かも知れない」となりやすいものです。こんな思いでは、相撲でいえば、もうすでに自分自身で土俵を割っているのです。この間も、ある信者さんが胸のところを押さえて、「先生、ここのところが冷たくて痛いような気がしますが」
「そこが痛かったら、肺病だと思っているのだろう」と、さき回りして言うと、
「はあ、実は、そうじゃないかと心配しています」
「そんなことを思っていたら、自分から肺病に、はまり込んでいくようなものだ。あんたの痛いと思うところは、あばら骨の五枚目と違うのか」
「そうです」
「骨が痛いのだったら、肺病とはちがう。が、それを自分で心配して、肺病を製造していたら、肺病になってしまう」と言って、たしなめておきました。

 事実「胸が痛い、せきが出る。これは肺病ではないかしらん。えらい病気にかかったぞ。どうしたものだろう」と思いつめたら、肺病になってしまいます。まだ病気になってもいないのに、自分の心で病気にしてしまって、神様に身体丈夫のお願いをしながらも、内心では「神様、私は肺病を承知しています。ーー難儀な病気にかかったなあ、と心配しています。私が、なんとかいたします」と申し上げているようなもので、神様にお願いしながら、神様にそむいているようなものです。

 相撲の番付で言ってみますと、肺病は、三役のうちに入りましょうかこちらは滅多に勝てそうもない幕下でも、神様一心にお頼り申し、お願い申していましたら、相手は、横綱大関であろうが、大丈夫。負けるようなことはありません。私は、これまでに何度も病気をしました。どんな大病を患っても「死んでもかまわん」という思いで、一心にお願いしました。この生きる死ぬるということは、神様がままにしておられるのですから、そのことは神様の思召しに任せておいて、一心にお願いすればよろしいのです。

患ったら、死ぬか生きるかの一番勝負で、あとがありません。今度は負けたが、次には勝ってみせるといっても、棺おけの中へ入ってしまっては、もうどうしようもありません。

 ですから、患ったら、死ぬか生きるかの一番勝負だと思って、「やあっ」と、力一杯取り組むのです。勝つか負けるか、そんなことは気にしないで、一生懸命、死に物狂いになって突っぱってゆくのです。きっと向うがひっくりかえります。

 「さてと、こんなに悪いと、このままだめかも…」。こんな弱腰だったらもう土俵を割っているのも同然で、ぽんと突かれたら、一たまりもなく、まいってしまいます。後ろをみてはいけません。あとはないのです。後ろをみる、ーー負けたときのことを考えているようなことでは、とても世渡りの相撲はとれません。たとえどんなことがあっても、愚痴や不足をこぼしてはなりません。それでは、相撲は負けです。

 やりそこなって死んでも、もともとです。少しも損にはなりません。人間、死んでも不思議ではありません。どんな人でも、一度は死ぬのです。ですから、そこまで命がけで相撲をとった上で投げられたのなら、心残りはありません。しかし、ひょろひょろしていて、ぽんと突かれただけで負けてしまったのでは、泣くにも泣けません

(6)  中風になったおばあさんの話

 今は、もう亡くなりましたが、前の教会の横町に住んでいたおばあさんがありました。中風になって、半身が動かなくなり、舌がつりあがって、ものが言えなくなりました。

 ところが、このおばあさん、発病して三日目ぐらいから、口をもぐもぐさせて、おろおろと言いだしました。舌が回らないので、何を言っているのか聞きとれません。
「先生、何か知りませんが、うちのおばあさん、おろおろ言っていますが」
「よく聞いてごらん。それは、神様にお願いしているのだろう」
「ああ、そうでございますか」

そこで家人が、おばあさんの言うことを、注意して聞いてみますと、どうも何やらお願いしているらしい様子です。
「先生、おばあさんのおろおろは、お願いしているのです」
「そうか、それなら大丈夫、心配ない」
「先生、中風でしょうか」
「中風でもなんでも、心配はない。きっと、おかげが蒙れる。おばあさんの祈りは、確かなものだ」

 そんな具合いに言っていましたら、一週間で大分よくなり、一カ月で、すっかりおかげを蒙りました。それから五年して、また中風を患い、半身不随になりました。
「先生、今度ばだめでしょうか。二度目ですから」
「いや、そんなことはない。おろおろは?」
「やっぱり言っています」
「それなら大丈夫」

 この時もまた助かりました。ちょうど十五年ほどの間に、三べん中風になりましたが、三ベんともおかげを蒙りました。中風になって、手足が動かず、口もきけません。本当に死んだと同然になっても、このおばあさんは、病気ぐらいでは動じない信念を持っていて、祈りだけはしっかりしていました。ほかのすべてがいけなくなっても、祈りだけは生きていましたから、このようなおかげを蒙ることができました。

 以前に、こんな話を承ったことがあります。ある信者さんが、ご本部にお参りをしまして「金光様、私は、永年胃が悪くて困っています。お顧い申します」と申し上げますと、「一週間でおかげ蒙れ」というお言葉を頂きました。

 ところが、この方は「私の胃病は、慢性の胃病で大病です。それを神様にお願いもして下さらないで、一週間ぐらいで治るかしらん」と、お願いしながら、自分の心では、おかげの断りを言っていました。

 お願いして三日自でした。朝早くお参りすると、金光様が、ちょうど、ご祈念をすまされたところでした。お結界へごあいさつに行ってびっくりしました。極寒の最中、金光様は、単衣一枚しかお召しになっておられないのに、お顔に汗がにじみ出ているのを見て、恐れ入ってしまいました。「ああ、もったいない。金光様は、このお寒いのに、単衣一枚で、汗をかいてご祈念下されている。これはうっかりしておれない」。そう気づきますと、思いが、がらりと変わってきまして、一心にお願い申さないではおれないようになり、とうとう、慢性の胃病を仰せ通りに、一週間でおかげを蒙ったということであります。。

 今は、もう亡くなりましたが、前の教会の横町に住んでいたおばあさんがありました。中風になって、半身が動かなくなり、舌がつりあがって、ものが言えなくなりました。

 ところが、このおばあさん、発病して三日目ぐらいから、口をもぐもぐさせて、おろおろと言いだしました。舌が回らないので、何を言っているのか聞きとれません。
「先生、何か知りませんが、うちのおばあさん、おろおろ言っていますが」
「よく聞いてごらん。それは、神様にお願いしているのだろう」
「ああ、そうでございますか」

そこで家人が、おばあさんの言うことを、注意して聞いてみますと、どうも何やらお願いしているらしい様子です。
「先生、おばあさんのおろおろは、お願いしているのです」
「そうか、それなら大丈夫、心配ない」
「先生、中風でしょうか」
「中風でもなんでも、心配はない。きっと、おかげが蒙れる。おばあさんの祈りは、確かなものだ」

 そんな具合いに言っていましたら、一週間で大分よくなり、一カ月で、すっかりおかげを蒙りました。それから五年して、また中風を患い、半身不随になりました。
「先生、今度ばだめでしょうか。二度目ですから」
「いや、そんなことはない。おろおろは?」
「やっぱり言っています」
「それなら大丈夫」

 この時もまた助かりました。ちょうど十五年ほどの間に、三べん中風になりましたが、三ベんともおかげを蒙りました。中風になって、手足が動かず、口もきけません。本当に死んだと同然になっても、このおばあさんは、病気ぐらいでは動じない信念を持っていて、祈りだけはしっかりしていました。ほかのすべてがいけなくなっても、祈りだけは生きていましたから、このようなおかげを蒙ることができました。

 以前に、こんな話を承ったことがあります。ある信者さんが、ご本部にお参りをしまして「金光様、私は、永年胃が悪くて困っています。お顧い申します」と申し上げますと、「一週間でおかげ蒙れ」というお言葉を頂きました。

 ところが、この方は「私の胃病は、慢性の胃病で大病です。それを神様にお願いもして下さらないで、一週間ぐらいで治るかしらん」と、お願いしながら、自分の心では、おかげの断りを言っていました。

 お願いして三日自でした。朝早くお参りすると、金光様が、ちょうど、ご祈念をすまされたところでした。お結界へごあいさつに行ってびっくりしました。極寒の最中、金光様は、単衣一枚しかお召しになっておられないのに、お顔に汗がにじみ出ているのを見て、恐れ入ってしまいました。「ああ、もったいない。金光様は、このお寒いのに、単衣一枚で、汗をかいてご祈念下されている。これはうっかりしておれない」。そう気づきますと、思いが、がらりと変わってきまして、一心にお願い申さないではおれないようになり、とうとう、慢性の胃病を仰せ通りに、一週間でおかげを蒙ったということであります。

(7)   腰痛の桶屋さんの話

「先生、今日はおかげを蒙りまして、歩けるようになりましたので、お参りさせてもらいました」
 七年も腰痛を患っている桶(おけ)屋さんです。何とも、根(こん)のいいことです。七年もの長い間、よう辛抱強く腰痛と仲良しをつづけたものです。

 「一週間というお願いをするから、あんたもそのつもりで一心にお願いしなさい」
 「先生、一週間ですか、この病気が。いくら神様でも、そんな無理なお願いはできません。何しろ七年も患っているのですから」
「そうか、それなら、一年というお願いをしよう」
 「先生、それは長過ぎます。もうちょっと早く……」
「それなら一週間で…」
「でも、私のは慢性ですから…」
「それなら半年」
「もうちよっと早く」
「一体あんたは、いつまでに治してほしいのだ。早く治してほしいのと違うか」
「そら早く…」
「早く治してほしいのなら、一週間で結構ではないか」
「でも私のは慢性ですから……」

この人は、ひどく慢性が好きらしく、私の病気は慢性だ、ということを放しません。
「まあ、よく考えてごらん。あんたは、今までに七年間患っている。すると、これから一年かかったら、八年間患うことになる。一カ月で治っても、七年一カ月だ。治るのが遅れているのだから、そのつもりでお願いしなければならない。仮に、一カ月患って一カ月でよくなっても、前後ニカ月患ったことになる。あんたは、よほど分からん人だなあ。まだこの上、患っておりたいのか」
「何も患っていたいことはありません。でも慢性ですから、そんな無理なお願いをしても、と思いまして」
「困るなあ。あんたは、おかげを蒙るのが遅れているのだから、早くよくなるようにお願いしなければならないのに、私の言うことが分からないのか」
 
 私の方では、早くおかげをと一生懸命になっているのに、本人が自分勝手な勘定ばかりしてるのです。

 この人は、私の話が分かり、一週間でおかげを蒙ったばかりでなく、その後、五年間患っていた家内も助かりましたが、このような勝手勘定は、この人ばかりとは限らないようであります。
(この「我が信心の歩み」は、2008年6月に掲載されたものです)
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