「我が信心の歩み」 (連載第37回)


[三十七]  願いは生活に表すこと


 御神訓に『わが心でわが身を生かすこともあり、殺すこともあり』『わが心でわが身を救い助けよ』とありますが、神様は、助けて下さるに決まっているのに、助からないように、自分の心が自分を引き倒しにかかります。自分が患っても人が患っても、もう今度はだめだと、自分で墓穴を掘ります。身体が患ったら、心が助けなければならないのに、「もう死ね、早く死ね」と、心が墓穴を堀ります。商売でも、欠損がつづくと、早くも心は、夜逃げすることを考えます。

 『悪い事をいうて待つなよ。先を楽しめ』との御教えもあります。悪い事は待たなくても出てきます。それを待っていては、とてもたまりません。どこまでも、信心によって苦難と戦い、おかげを蒙るように、神様一心に祈っていくことです。
 
 『討ち向かう者には負けて時節に任せ』。信心さえ強かったら、祈りの力によって、討ち向かうものに一時は負けても、最後にはおかげを蒙れます。何にしても祈りが大切です。どれだけ話が分かっていても、日々の祈りが、いい加減な祈りしかできていませんと、ちょっと事が起こると、いちころに負けてしまい、何でもない事にふるえあがってしまいます。

 商売していましても、月のうちの十日頃まで暇ですと「ああまた、この月はだめだ、この調子だと、大分くいこむだろう」と、取り越し苦労をするようになります。これでは、折角のお願いを取り消して、おかげを断ることになりますから、おかげにはなりません。どうしてかと言いますと、「ああ、この月も足らんなあ」と思ったら、自分の心に「この月も足らん」という帳締めをしてしまいます。その心に、おかげは入りようがないのです。

 そこが、分かった人になりますと、月のうち二十日まで暇でも「まだ五日ある。その間におかげを蒙る」と一心に打ち込んで願っていきますから、おかげになってゆきます。それで金光様は『今月今日で、一心に頼め、おかげは和賀心にあり』と教えられたのです。

 以前、金光様に、「神様を祀らせて頂きたい」とお願いしますと、お書付けをおさげになりましたが、そのお書付けには、中央に『天地金乃神』、その下に『一心ニ願』右脇に少し下げて『生神金光大神』、左側に『おかげ八和質心にあり』、『今月今日でたのめい』と書かれていました 
 これをお祀りして拝ませて頂くのですから、私は、そのうちの、『天地金乃神様』と『全光大神様』とは、向かって祀らせて頂く御神体、『おかげハ和賀心にあり。今月今日でたのめい』は、わが心に祀らせて頂く御神体だと申しています。なぜかと申しますと、さきに述べましたように『おかげは和賀心にあり。今月今日でたのめい』を抜きにしましたら、信心そのものが成り立たないからであります。

 人によりますと「私らは、信心が足りないから、いくらお願いしてもだめだ」という人がありますが、こんな思いでお願いするのは、自分で願いを打ち消していて、お願いに対する考えが、最初から間違っています。お互いに、信心の足りないのは分かっています。足りなければ足りないながらに、神様にお頼り申し、おすがり申せばいいのです。足りないからといって、引っ込み思案は禁物です。

 お互いは、世渡りの上で、千貫目もあるような大きな重い荷物を、持って歩かねばなりません。自分では、百匁しか持てなくてもかまいません。百匁を持つだけの力を出していましたら、千貫目の荷物が動きます。どうして動かないことがありましょう。力が足りなければ足りないながらに、一心に力をこめてお頼り申し、おすがり申してさえいれば、神様がお力添え下さるので動くのです。つきつめていえば、自分ほど頼りないもの、力のないものはないと知ることのできた人の方が、本当の祈りができ、願いがでるのです。

 正直なところ、私も、信心し始めには、祈りが祈りにならず、お願いがお願いになりませんでした。神様に願っているようで、その実は、自分の腕に願っていました。もうかるか損するか、どっちへ切れるか分からない腕を頼り、腕を信じ、腕に祈っていました。そこにあるのはただ〃わしが〃〃おれが〃の〃我〃であります。わしが働いて、わしが生きているという思いですから、神様は神様、わしはわしとなり、私は神様と離れてしまい、住む天地が、心配の世界、苦しみの世界になるのは当然のことでした。

 私が、本当に祈り願うことができるようになったのは、私自身の頼りなさを本当に分からせて頂き、〃わしが〃〃おれが〃の〃我〃がなくなり、腕を神様に末練なくお渡し申し、神様をご主人と頂き、ご奉公申す覚悟がきまった時からです。そこで初めて安心ができ、何もかもが楽になって、心配がなくなり、極楽が見つかったのです。お互いが持たねばならない生活の重荷は、それがどんなに背負いきれないほど大きくても、天地の親神様は、お互いの手を持って引っ張って下され、その荷物を持って下さるのです。

 神様の方では「お前たちの力では、力が足りないのだから、とても世渡りしていくことはできない。力を貸してやろう、足してやろう」と仰せられているのに、お互いは「いいえ、いりません。私がやります。私には力がありますから、私が、何とかして心配してやっていきます」と、自分の心で断って、おかげを逃がしているのです。神様に足して頂いておかげになるものを、足していらないというような行き方ですから、お互いが困ることになるばかりか、神様もお困りになるのです。

 親が子供と道を歩いていて、子供が荷物を持っているとすると、親が「こっちへ渡しなさい。持ってあげる」と言うのに「いいや、私が持つ」「持ってやろうというのに」

 「いいや、私が持つ」。へたってしまっても、まだ「いいや、私が持つ」と言いつづけたのでは、親はたまったものではありません。持ってやろうというのですから「はい」と素直に持ってもらうことです。そうすれば、子供も身軽く楽になり、親も安心というものであります。
(この「我が信心の歩み」は、2008年7月に掲載されたものです)
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