「我が信心の歩み」 (連載第38回)


[三十八]  願いは生活に表すこと(2)


 ところで、このように話してきますと、気の早い人は、自分は懐手しながら、ぶらぶらしていればいい、というように考えるかもしれませんが、ブランコにでも乗ったように、神様にぶらさがるだけのことだと思ったら、それは間違いです。

 祈り願いは、それを自分の生活の上に書き表すこと、自分の働きに表すということが大切です。

 たとえば、神様に商売繁盛を祈り願ったとします。祈り願った以上は、この自分は、商売繁盛に精を出す自分でなければなりません。それが、本当の商売繁盛の祈り願いです。
 
それで神様もまた、全責任を持って、足らないところを足して下され、こちらの働きが、むだ働きにならない保証をお与え下さるのです。

 火難・盗難のございませんようにと、願ったからといいましても、火の用心はしなくもいい、表は開けっ放しでもいいとはいえません。火の用心をし戸締りをして、火難・盗難のお守りを願うのが本当であります。何事も一心に願うといいましても、自分が最善の努力を尽くした上でのお願いでなくては、本当のお願いとは言われません。

 お互いは、この世に、何のために生まれてきたのでしょうか。働くために生まれてきたのです。うまいものを食ベ、きれいな着物を着て、ぶらっとしているために生まれてきたのではありません。えてして人間は、楽をしたいと思いますが、働かずに楽がしたいというのは人間の悪い病気であると思います。

 たとえば、家業繁盛をお願いして、おかげを蒙ったら忙しくなってきます。どうしても楽ができません。朝寝が好きで、遊びが好きで、楽をしたい人には、家業繁盛のお願いをする資格がありません。働くことこそ楽であり、楽しみであるのです。ですから、見てごらんなさい。
なんでもうまいものを食べて、楽をしたいというような人にかぎって、病気になり、患うと、木の皮や草の根をたき出したのを飲ませてもらったり、いろいろな療法を受けて、苦労している人もあるようですが、ばからしい話です。

 生きた人間というのは、生きて働いているということです。働いているものだけが生きている、と言っても過言ではありません。無事に働かせて頂けることが、何よりも有難いのです。
『からだはちびるものではないから働くがよい』。精根の限りを尽くして、働かせて頂くことです。

 教祖様が『年寄りをたいせつにせよ。早く生まれた者ほど、働きをたくさんしておる』と仰せられているように、働きの大切なことを知ることができますが、世間には、気が向いたら働く、向かなかったら、縦のものを横にするのもいやだ、というような人がありますが、私は、そういう人は人間のくずだと思います。

 ここに時計があるとします。その時計は、気が向くからといって、無茶苦茶に動く、――気が向かないからといって、少しも動かなかったら、そんな時計を何というでしょう。いくらぴかぴか光っていても、つぶしの値打ちしかありません。どんなに立派な機械でも、働かなかったら悪い機械といいます。

 御教えに『このかたの行は、水や火の行ではない。家業の業ぞ』と、家業を信心の行と仰せられていますように、働くということが、信心の上で大事なことであります。ですから『体のじょうぶ(丈夫)を願え』『体を作れ。何事も体がもと(元)なり』と、身体が働きのもとであること、働きのもとである身体の健康を祈り願わなければならないことを教えられたのです。

 人間から、働くということを取ってしまったら、人間の値打ちはありません。働きがなかったら、どんな人格者でも、教養人でも、でくの坊です。人間というより、〃人糞製造機〃と、言い方を換えた方がよろしい。働いてこそ、人間の値打ちがあるのです。金光大神様は『実意丁寧正直』と仰せられていますが、それは、その人その人の働きを通して現れるもので、働きを抜きにしては、実意も、丁寧も、正直も、あったものではありません。物の値打ちは、その物の働きによって現れるものであり、人の値打ちも、その人の働きによって現れるものです。

 たとえば、かみそりは毛をそるものですが、毛がそれないようでは、形は、かみそりでも、紙切りか、鉛筆削りの値打ちしかありません。しかも、この働くということは、どんなに気張っても、何一つ神様のまねのできない人間が、神様と同じ事をさせて頂けるのですから、こんな有難いことはありません。有難く動かせて頂くことが、何よりも大切なのです。 天地をごらんなさい。天地は昼夜兼行で、一分一秒の休みもなく働いています。それは、森羅万象が、生々化々の働きをしていることから分かります。

 祈り願いは、ご祈念している時だけのものではない。それが、目にも耳にも手にも足にも、つまり、身体全体の動きにあらわれ出て、心の働き身の働きが、一つのものになってこそ、本当の祈りとなり、働きということになってくるのです。それで、わが祈り願いが、神様に聞いて頂ける祈り願いとなり、神様のお守りお力添えも蒙れるのです。

 御教えに『信心とは働くことじゃ』と承っていますが、以前の私が、商売の上で、どれだけ分かっていたかといいますと、本当に分かっていませんでした。勉強しなければならない、働かなければならないと、心では思っていましても、身体がいうことをきかなかったのです。いや、きかなかったのではない、本当のことが分かっていなかったのです。
 私は神様から「勉強が足りない」と教えられますと、修行と思って、二年ほど勉強しました。

 もうよいだろうと思ったのに、神様から「まだ足りない」と言われますから、「足らないって何が足りませんか」とお尋ねしますと、「真実が足りない」ということでした。 それで、一年ばかり真実ということに骨を折り、「これでようございますか」と申し上げますと、「まだ足りない」と仰せられます。「一体、何が足りませんか」とまた尋ねましたところ、次は「始末が悪い」との仰せです。それで帳面の始末に骨折りました。もうこれで十分だろうと思って、「これでよろしゅうございますか」と言いますと、「まだ足りない」とのこと不思議に思って、「これでもまだ足らんので……?」と申し上げますと「経済の持ち方が悪い」と教えて頂きました。これで、経済の持ち方が商売の勉強に密接な関係のあることを知らせて頂きましたが、この経済の持ち方が、私の一番不得手のものでしたから、これには相当骨が折れました。

 こんなわけで、家業と勉強ということを分からせて頂くのに、前後六年もかかりました。一口に働くと言いましても、どう心を動かし、身体を働かせたらよいのか、どのように改まっていかなければならないのかということを、参考までに聞いて頂きました。

 私のような、わけの分からない横着者を、神様は、どこまでもお目長く、何とかして教えてやろうと、私の心と身体をきたえてくださったのです。その深い思召しに対して、私は厚くお礼を申しておりますが、これは私一人に限った課題ではなく、私というものを通して、みなさんに〃働き〃という修行をご催促下さっているものと受け取って頂き、そのつもりで、働きに骨折って頂きたいと思います。

(この「我が信心の歩み」は、2008年8月に掲載されたものです)
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