「我が信心の歩み」 (連載第39回)


[三十九]  願いは生活に表すこと(3)


私が、日夜、お広前でお取次ぎさせて頂いていますと「先生、お疲れでございましょう」と言って下さる人がありますが、私としましては、この六年間に、働くということを、頭だけでなく身体が覚え込んでしまいましたので、いくらじっとしていようとしても、身体がじっとしていないのです。働くのが楽しみで、じっとしている方が苦しいのです。世間では、働くのが苦痛のように思っていますが、私には、働かずにいる方が苦痛なのです。

 私が、教会を持たせて頂いた直後、神様から「その方の寿命は十年ぞ」というお知らせを頂きましたが、その時「有難うございます。明日の日に命を召し上げられましても、不足は言えませんのに、十年生かせて下さるとは、有難い仕合わせでございます」とお礼を申し上げました。

 それからの私は「今から十年とすると四十六だ。この世は、働きに来たのだ。よし、これから人の三倍働こう。普通の人は、一日に八時間働くというが、その時間内に、どれだけ働けるか。自分は、仕事の中身で三倍働くことにしよう。そうすれば、四十六で死んでも六十六まで生きることになる」と、こう覚悟を決め、「人の三倍」を目標に働くことにしました。九年目に、半年の間祈りつづけた命乞いのお願いがかない、ない寿命をついで頂くことができましたのも、この十年間の働きを、神様がお認め下さったからであろうと思います。

 以前も、身体の弱いご婦人が信心させて頂いて、「身体丈夫」ということを一生懸命にお願いしていました。が、一向に身体丈夫になりません。おかげが蒙れないのです。しかし、そのうちに一つの〃お気付け〃を頂きました。

 お互いは、お気付けによって改まりをさせて頂く、ーーお互いの働きを、神様の思召しに添うように改め、転換させなければなりません。

 ところで、この婦人も、とうとう気づかなければならないところを気づかせて頂きました。
 
 それは、何であったかと言いますと、「女中さんはなぜ太るか」ということでした。女中さんは、どこの女中さんもまるまる太っています。食べ物では、自分らの方が、ずっと栄養になるものを食べているのに、一向太らないのはなぜだろうか、ということに気づいたのです。

 「一つ女中のまねをしてみよう」ということになりました。それからというものは、朝は女中さんと一緒に起き、ぞうきんがけをする、座敷の掃除をするという具合いに、女中さんと同じように働きました。半年ほどしましたら、体重が一貫五百ふえました。それまでは、料理屋から取り寄せたごちそうでも、あんまりおいしく思わなかったのが、今では、自分の家でつくったおそうざいがおいしくなってきて、身体丈夫のお願いがかなうことになりました。

 それは、この方のそれまでのお願いは、お願いだけにとどまっていましたのが、お願いにともなわなければならない働きが付け加わって、本当のお願いになったから、神様の思召しにかない、身体丈夫のおかげにして頂けたのです。お互いは、祈る場合、この自分に神様が何を要求しておられるか、神様が要求しておられるところを分からせて頂き、改めなければならないことを改めて、それを実際の働きに表していかなければなりません。

 天地の摂理について、例を、田畑の耕作にとって考えてみましょう。田畑の手人れをしてもしなくても、草取りをしてもしなくても、結果は同じであるというような頼りないものではありません。改めに改め、働きに働いただけ、それはむだにならないで、その結果がはっきりと現れてきます。

 お互いの祈り願いは、ご主人である神様の思召しが、どこにあるかを分からせてもらい、奉公の実をあげる働きをさせて頂かなければなりません。そうでなかったら、その折り願いは、単に、むなしい祈り願いにとどまり、なかなか神様のお力添えは蒙れないのです。

 この間も若い人が、二、三人お参りしていましたから
「どんな考えでお参りしているのか」と尋ねますと、
「それは先生、おかげが蒙りたいからです」
「で、おかげを蒙ったらどうする?」
「そんなことは考えていません」
「それはいけない。それでは、一生懸命にお願いしても、神様もおかげを渡すのに困っておられるだろう。もう少し考えて信心しないと、信心になってこない。そんなお参りではつまらん。神様が、喜んでおかげを下さる信心をさせて頂きなさい」

「それは先生、どんな信心ですか」
「子供は、小遣いがほしいと、〃お母ちゃん小遣いちょうだい〃とねだる。〃小遣いを何にするの〃と聞かれて、〃そんなこと知らない〃と言ったら、親が子供に小遣いをやりますか。よしんばその使いみちが分かっていても、映画に行くとか、買い食いするとか、不要のものを買うとか、いうのであったら、親は小遣いをやらない。しかし、これこれのものが、ぜひ入り用となったら、文句なしに、親は出してくれます。手元になかったら、よそで都合してでも出してくれます。

 神様のおかげでもそうだ。〃おかげ下さい、下さい〃とお願いしても、おかげを蒙ってどうするのか、それが分からないような、頼りないお願いではおかげになってきません。病気で難儀している人が、どうぞ早く全快のおかげをとお願いしても、病気が、全快したらどうするかが分からないのでは、お願いの意味がない。病気が全快しさえすれば、苦しみがなくなり、毎日が面白くて、どこへでも遊びに行けるというのでは、いくらお願いしても、神様には通じない。同様に、経済の上でも、商売繁盛がしたい、金がもうけたい、と祈っても、商売が繁盛して、金をもうけて、肩で風を切り、勝手な遊びをしたり、ぜいたくしたりするための祈りなら、やっぱり神様には通じない」

 私はこんなふうに話したのですが、お互いは、おかげを頂いたら、そのおかげによって、さらに一層大きな真(まこと)の働き、親神様が私たちにご期待になっている真の生き方に進まなければならないのです。

 そういえば以前、こんなことがありました。夜分の一時頃だったと思いますが、ある婦人が風呂敷でちりちり毛の頭を包んで「先生、こういう頭なので、外によう出ません。どうぞお願いいたします」と言って参って気ました。その毛は引きのばしても、五寸位しかなかったようですが、おかげを蒙って、半年で毛が大分のび、一年で髪が結えるようになりました。

 すると、その主人が、お礼に参って来て「私ほど損なものはありません。長い間、〃この毛が、この毛が〃と言っていじめられ、〃気にかけるな、私さえ承知ならいいじやないか〃と言いましても、言うことをきかないで、〃みっともない〃と言って、泣いてばかりいましたが、おかげを受けてよくなると、どうでしょう。いや、何やらのかんざしが欲しいの、何やらのくしでないといけないのとか、今日はどこそこへ行くとかで、私は困っています。こんなことになるのなら、元のままでいてもらった方が、よろしゆうございました」と、泣き言を言っていましたが、これでは、折角蒙ったおかげも意味なしです。「身体がよくなると、あちこち飛び回るので、患っていてくれる方が、薬代だけですみますから、その方がよいくらいです」などと、言われるようでは困ったものです。


(この「我が信心の歩み」は、2008年9月に掲載されたものです)
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