[四十一]  神様がご主人、自分は奉公人(3)

(1)居候を六人も預かって<2>


(続き)
「どうしたのですか」

 「はあ、あのう、おかげで百六円残りました。私のような小さい商いで、おまけに六人も家族が増えているのですから、残るはずがないので、勘定違いではなかろうかと、何べんもソロバンを持ってみましたが、間違ってはいません。やはりおかげを蒙ったのです。どんなにして神様がおかげを下さったのか、私には分かりません。ただもう、有難くてうれしくて、ひとりでに涙が流れます」
 と言って、大喜びでした。私も一緒に喜ばせてもらいました。

 こうお話をしますと、神様のおかげは、人間の理屈には合いません。人間の理屈を持ってきて、神様のおかげに合わそうとしましても、それは、けたが違っていますから、合うはずがありません。神様のおかげは、人間の理屈という定規では、測ろうとしても測れないもので、だから、理屈を放れと言われるのです。理屈があっては助からないというのも、ここのことを言うのです。

 この頃の人は、何でも理屈万能主義で、何事も自分の知恵だけで解釈してゆこうとします。自分の理屈に合わないと、それが拒みようのないはっきりした事実であっても、そんなことがあるはずはないと言って、問題にしない傾向があります。自分の考えている理屈に合わなくても、自分の知恵で解釈できなくても、そういう事実が、目の前に事実としてある以上は、それに目をふさがないで、よくそれを見て、自分というものを省みて、自分の理屈のいたらないこと、自分の知恵の足りないことを悟るべきです。
 
 今お話ししたTさんのような例は、事柄が、数字に現れる金銭上のことですから、あいまいなところはありません。はっきりしています。その金は盗んできたものでもなければ、ごまかしてとったものでもありません。おかげを蒙ってそうなったのですから、これには理屈も顔負けです。

 この方は、最初、妻君と二人暮らしでした。私のすすめに従って、妻君の里の六人を引き受けることに決めますと、「家の神様のお祭りをさせて頂きたいと思います。ぜひ来て下さいますように」と言うので、私がお祭りに行きましたが、見るからに暮らし向きが苦しそうで、「気の毒になあ」という印象を受けました。お茶をくんで出してくれた湯飲み茶わんは欠けており、糸底には、ひびが走っています。
「この茶わんは欠けているなあ。大分、骨とう品らしい」
「お恥ずかしいことですが、これしかございませんので、失礼ですが……」。

あとは声をのむという始末です。どうやら座布団は一枚しかないようで、しかも相当にあかじみていて、敷くのが気持ち悪いくらいです。

 「座布団一枚しかないのか」。私は遠慮なしに思った通りに言います。
「はあ、一枚しかございません。客用もこれしかございませんので……」

「では、しまっておきなさい。……こういうところを私に見せておくのはいいことだ。こんな楽屋を見せられると、何でもおかげを蒙ってもらわなければならないと、私もご祈念に張り合いが出る」

「先生、まことにのみが多うございまして」

「かまわない」。私は、気持ちよくお祭りをさせて頂いて、帰らせてもらいました。

 夫婦二人きりでさえ、楽でない暮し向きのところへ、増えも増えたり、六人も増え、やせた細腕に六人がぶらさがった形で、神様のおかげを蒙らなければ、とてもやってゆけそうなわけがありません。それが、月がかわり十二月に入ると、にわかに様子が変わってきて、調子がよくなり、まるで福の神が舞い込んできたように商売が忙しくなり、日に五へんぐらい問屋へ走る、問屋で品物を仕入れる、売れる、金をもらう、また問屋へ行くといった具合いに、とっかけひっかけ、不思議なほど繁盛しました。

 「これで資金があったら、うんと商売ができるのですが」と言いましたから「ばかなことを言ってはならない。金がないからこそ、それだけの商売ができるのだ」としかったほどです。それで、正月以来、八人の世帯で、月々七十円ずつ残るようになりました。

 お互いは、すべてにわたって、限りというものがあります。あの人は賢い人だと言っても、その賢さには限りがあり、あの人には腕があると言っても、限りがあるものです。財産があると言っても、やはり限りがあり、長生きをしたと言っても、限りがあります。知恵だ、学問だと言っても、同様です。目がよく見える、耳がよく聞こえると言っても、限りがあります。このように、すべてに限りのあるお互いが、世渡りの上では、限りのない責任を負って、限りなく尽くしてゆかなければならないことになっているのです。

 すべてに限りあるお互いは、限りない神様のお力添えを蒙り、限りない神様のおかげを蒙ってゆかなかったら、どうして立ちゆきましょう。分からなければならない大事なことは何であるかと言いますと、自分は限りがある″、つまり、甲斐性なしだ″ということです。その甲斐性なしということが、本当に分かったらよろしいのです。それが分からないので、それにわざわいされて、苦しみもし、悩みもするのです。自分にそんな能力がないということが、本当に分かりさえすれば、度胸がすわってきて、神様一筋にもたれ込んでゆけるのです。

 それが、自分というものを、大した値打ちのあるもののように思い違いして、自分を買いかぶり、自分に能力があるもののように思っているから、これも何とかなるだろう、あれも何とかしてみようということになり、苦しまなくてもよいことに、苦しまなければならないようなことになったり、悩まなくてもすむことに、悩まなければならないことになるのです。
 ですから、お互いは、お互い自身を、分不相応に大した値打ちのあるもののように思わせるわしが″という我″の魔手に乗らないように、気をつけなければなりません。お互いに甲斐性があるかないか、これが分かるか分からないかによって、救われるか救われないかの違いが出てくるのです。

 Tさんのお話のついでに、同じようなことを、私がまだ商売をしていた時分に、私自身が経験したことがありますので、聞いてもらいます。

 ちょうどその頃は、世間の景気が悪くて、商売がさっぱりもうからない時でした。何とそこへ、「まあ、何か仕事が見あたるまで」と言うので、居候を三人抱え込まなければならないことになりました。正直なところ、私の弱い肩には、荷の勝ちすぎた重荷でした。家の者だけなら、倹約もできますが、他人を三人も迎えては、そうもなりません。食事にしても、「まあ、あり合わせですませておこう」とはいきません。なにかにつけ、たとえ自分等は不自由しても、来ている人たちには、あまり不自由な思いはさせたくありません。商売がもうからない時に、私の力で居候を三人も世話しなければならないのであったら、それはとても及ばぬことで、投げ出してしまうよりほかありません。私には、そんな甲斐性がないのですから。ところが、それがどうなったでしょうか。

 一年ほどたちますと、働き口が見つかり、三人は出て行ってくれることになりました。私は世話をさせてもらったかいがありました。しかし、それにしても商売不振の時のことです。これはよっぽど赤字が出ていることだろうと思って、勘定してみますと、なんと少しも食い込みになっていません。一文のもうけもないかわりに、一文の欠損もありません。こんなおかげを頂きましたが、これは、自分がしたことではありません。神様がして下さったのであります。

                                        
<2008年12月掲載>
(「我が信心の歩み」の内容は毎月更新されます)
TOP