「我が信心の歩み」 (連載第45回)


[四十五]  神様がご主人、自分は奉公人(五)

天地のものは天地へ返す(上)

Nさんという信者が、熱心にお参りするようになってから、半年ほどたっての話であります。その人のことをお願いしていますと、「Nを、一ぺん鳥の毛をむしりとったようにするから、その分に承知せよ」という、これまでにまったく承ったことのない神様のお言葉を頂きました。
 
 鳥の毛をむしりとったようにするというのは、つまり、まる裸にするということ、目もあてられないようなことになるということです。神様の仰せですから、どうしょうもないと思いまして、私は「それがあなたのご都合なら、よろしゅうございます。おやりなさいませ」と申し上げておきました。

 翌日、本人が参って来たので、そのことを話して、その覚悟で信心をさせて頂きなさいと、注意しました。

「それで、先生は、神様に何と申し上げて下さいました?」

「神様のお言葉だ、やむを得ん。〃どうぞお気に召すままにおやりなさいませ〃と、申し上げておいた」

「それは殺生です。そこを何とかして、助けて下さるのが、先生ではないのですか」

「でも、それはどうしょうもない。天地がそうなさるのだから、天地の外へでも行かないかぎり、逃れる道はない」

「先生、私はそんなことがないようにと思って、信心させて頂いているのです。鳥の毛をむしりとったようになんて、あんまりです…・そんなに、すげなくおっしゃらずに、何とか助かる道を教えて下さい」
と一生懸命に言います。

そこで私は、「そんなに逃れたいのなら、財産所有者の名前を切り換えるよりほかに方法がない。大体、名前が悪い。何をおいても、名前の切り換えが先決間題だ」

「でも、先生、これが人問同士のあいだの借りでしたら、名前を切り換えることによって、取り立ての急場を逃れることもできましょうが、先生の言われるように、天地から取り上げに来られるのでは、どんなに名前を切り変えてみても……先生、そんなに持ってまわった意地悪を言わないで、どうぞ助けて下さい」
「意地悪とは違う。この難場を切り抜けるには、名前を切り換えるより方法はないと言っているのだ」

「それでは、どうしたらよろしいか、よく私に分かるように教えて下さい」
弱り切って、頭を下げました。そこで、私は次のように話して聞かせました。

 お互いは、生まれてくる時、何を持って生まれてきたか。何にも持たず、まる裸です。日本で何某といわれる大金持ちであろうが、世界で有名な財産家であろうが、生まれてくる時に、千両箱をかかえていたということは聞きせん。本来、これは自分のものというようなものは一物もないのです。みんな天地のものだ。手近な例を、この私にとってみましても、この身体そのものが、天地のもので、私のものではありません。もしこれが私のものなら、私の思うようになるはずですが、ちょっとも私の思うようになりません。

 お互いは、天地に恵まれて、この口に食物を入れて頂いているものの、万一、この口に食物を入れて頂けないような逆境に落ち込んだらどうでしょうか。私は、口が干上がらないために、まず着ているこの羽織ーーこれは定紋のついた非売品だけれども、暮らしが立たなくなっては、そんなことを言ってはいられない。どうしても、その日の糧を得るために、古着屋へ持って行って、売るより仕方がありません。すると、この羽織は値札をつけられて、年の暮れの鮭(さけ)のように、古着屋の店先へぶら下げられます。
 
 これは、私の羽織だといっても、本当に私のものではありませんからそんなことにならないとは限らないのです。家もまたそうです。私の家だといっても、いつ何時、他人のものになるやら分かりません。お金もまたそうです。私の金だといって、金庫の中にしまい込み、錠をおろしておいても、いつどこへ逃げて行くやら分かりません。お金のことを〃おあし〃と言いますが、よく言ったと思います。不動産といっても転々と持ち主が替わります。山林や田畑といってみても、動かないでじっとしてはおりません。それというのが、みんな自分のもののようで、その実は、自分のものではないからです。

 そのことは、それを持って死ねないことからでも分かります。お金、田畑、着物など山ほど持っていても、それは持って行けるでしょうか。三井、岩崎、住友、鴻池などといわれる天下の大金持ちちでも、その財産を持っては死ねません。よしんば持って行けても、それは火葬場の口までです。どうしてかと言いますと、この世のものですから、この世においておかなければならないのです。こう言いますと、話が大層くどくなりますが、ここが分かるか分からないかが、地獄住まいするか、極楽住まいするかの分かれ目でありますから、念には念を押して、お話しせねばならないのです。

 私は、Nさんにそのような話をしてから、「このような次第で、もともと自分のものというようなものは、何一つありはいないのだ。

 それを、〃おれのものだ〃と思ってやってきたのが、重大なあやまちなのだ。この心得違いから、ぬきさしならん目をみるようなことになったのだ。と分かったなら、神様のものは神様へ、天地のものは天地へ返すのだ。私が、あんたに名前を切り換えなさいと言うのは、そこのことを言うのだ。家も家業も、動産も不動産も、何もかもみんな〃天地のもの〃ということに、名前を切り換えるのだ。そしたら、何をあんたから天地は取り上げられますか。取り上げようにも、取り上げるものがないではないか」
と言いますと、合点がいったのか、

「よく分かりました。おっしゃるように、名前を切り換えます」
と言うので、私は最後に、
「そうと分かったら、それでいい。あんたとしては、心配しなければならないことは何もない。ただ一心に神様にお願い申し、おすがり申していればよろしい。決して、中途で妙な勘定をすることはならん。すべて成り行きにまかせて、一心にお願いしなさい」
と言いふくめて、その日は、それで帰らせました。
それから十日ばかりたってのことです。

「先生この月は、ひどく詰まってしまいまして、どうにもこうにもなりません」と言って来ました。

「何が」

「商売も払いも、どうしようもございません。どうしましたら…?」

「そんなこと放っておいたらよろしい」

「それでも…」

「それでも、と言ってあんたに何とかできる甲斐性があるのか」

「ありません」

「なかったら、じっと見ていたらよろしい。商売があんたの商売なら、あんたが何とかしなければならないが、商売はあんたの商売ではなく、天地の商売だ。あんたは、一心にお願いし、天地の商売にたずさわる奉公人のつとめにさえ抜かりがなかったら、あとの心配は、あんたがしなくてもよろしい」

「ああ、そうですか。ではみています」

ところで、節季がやってきました。明日節季という日に参って来まして、
「先生、どうしましょう。少しもお金がありません」
とのことです。

「なければないまでだ。断りを言うだけだ」

 払いたいにもお金が無いのです。払えるまで待ってもらうよりほかはありません。
それで私は、
「断りなさい…そして一生懸命、神様に、払って頂くように請求することだ」
と、同じ言葉を繰り返しました。
 断りといえば、平生、世間体をつくろっている人ほど、支払いの断りを言うのはつらいもので、夫婦の間でも

「では、あんた、断りを言って下さいよ」

「ばかいえ、男がそんなこと言えるか」
 と、断り役のゆずり合いです。生まれて初めて、借金の断りを言うのですから、無理もありません。

「役もめのようだが、何が恥ずかしいの〃、ご主人は神様だ。あんた方は、番頭さんと女中さんに過ぎん。まあ大きなところには番頭さん、小さなところには女中さんが出て、断りを言ったらよろしい。自分のものでないものを、自分のもののように振る舞ってきた報いで、こんな役目を仰せつけられるんだ。これが恥ずかしいのなら、肝に銘じて、二度とこんな目にあわないように、気をつけなさい」
と戒めておきました。
                                     続く


(この「我が信心の歩み」は、2009年2月に掲載されたものです)
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