「我が信心の歩み」 (連載第46回)


[四十六]  神様がご主人、自分は奉公人(六)

天地のものは天地へ返す(下)


翌日の晩、お参りし来て「先生、今日ほどつらい思いをしたことはありません」何でも一番最初に入って来たのは、俥屋さんで、「帳場から来ました」と言われて、背中に冷水をかけられたような気がしたと、言っていましたが、日頃、偉そうにそりかえって乗っていた俥屋に、頭を下げて「払いを待ってくれ」と言うのですから、身を切られるよりつらかったに相違ありません。

 小口の支払いですから、断り役の妻君が、玄関で二こと三こと話していたと思うと、玄関の障子をしめるなり、その場でワアーと声をあげて泣いてしまったそうです。主人が、「泣かなくてもいいじやないか」「でも、生まれて初めて、わずかの借金の断りを言わなければならないと思うと」「無理はない。すまん、すまん。だが、いつ払うと言って断った?」「無我夢中ですから、カァッとのぼせてしまって、何を言ったか覚えていません」と言っているところへ、女中さんが出て来て「あの、奥様はたしか、〃中頃〃と言っておられました」ということから、どこの払いも「中頃まで待ってくれ」で、押し通すことにしました。ここまでくると、いよいよ真剣さが増して、その晩からのお祈り、お願いが今までとは違って、本物になってきました。

それからというものは、この夫婦は、日に三ベんも、四へんも参って来ます。「そんなにお百度踏まなくてもいいだろう」「先生、なか頃と言って断っています。何としてでも、おかげを頂かなければなりません」「何事もない時には、ずぼらしていて、尻に火がつくと、やいのやいのと騒ぎたてるのは、みっともないではないか。こんな時には、意地からでも、お参りしないで、おかげを蒙ったらどうか」「恐れ人ります。何と言われましても、文句がございません。もう、お参りせずにはおられません。どうぞお参りさせて下さい」。夫婦とも一生懸命でした。

 この方の場合は、そんなにまでお参りに一生懸命にならなくても、親類のところか、友人のところへ行けば、何とか融通もついたのですが、そんなことをすると、それは商売を、今まで同様に、自分の商売として取り扱うことになります。今は自分の商売であって、自分の商売でなく、神様がなさる商売ですから、自分が算段することは許されません。自分で何とか算段して、その月は、それで越されもしましょうが、それでは、来月も、再来月も、やりくりしなければならないことになる。そんなことをしていたら、いよいよ、鳥の毛をむしったようになるほかはありません。 ですから、私は「商売があんたの商売なら、あんたがやりくりせねばならないが、商売は神様の商売だ。あんたとしたら、神様にお願いしていたらよろしい。神様が都合して下さる」と押し通しました。その方も、私の話がよく分かってくれ、一生懸命になっておりますうちに、おかげを蒙り、中頃には、全部支払いのおかげを頂くことができました。

 節季・大晦日といいますと、節季は月に一ぺん、大晦日は年に一ぺんのように思つていますが、恵まれなかったら、そんなのんきなものではありません。私は、商売をしていた頃、節季が月に一ぺんであるとは思えませんでした。やりそこなったら、毎日が節季であり、大晦日です。もしお互いの生き方が、天地の思召しにさからって、天地の働きに合わなかったら、お互いの毎日は、どんな毎日になるでしょう。毎日が晦日です。節季は月に一回だと思っているようなことでは、信心は本当の信心になってきません。

 このNさんも、今お話ししてきたような次第で、一生懸命に足を運んでいましたので、次の節季も、その次の節季も、そのまた次の節季も、順序よく払わせて頂きましたが、そうなると、「もう大丈夫」という自信がつくのか、安心してしまうのか、どうも油断が出やすいものです。「先生、もう大丈夫です」と言いますから、「だめだ、そんなことを思っていたら、また行きづまる」と言っていましたが、果たして、祈り願いにすきが出てきて、それが足を運ぶ上にも、怠りとなって現れ、再び行きづまってしまいました。びっくりしてお参りして来ます。月末がすっと通る。また行きづまる。また通る。こんな具合いでしたが、だんだん油断がないようになり、行きづまらないで行けるようなおかげを蒙ることになりました。

 教祖様ご在世中のことで、岡山県でも有名な柔道家がお参りしまして、「金光様、あなたさまぐらい信心がおできになりましたら、もう安心でございましょうなあ」と申し上げますと、「いいえ、どういたしまして。なかなかそんなことはございません。あなたこそ、日本で、五本の指に数えられるような達人ですから、たとえ、寝ている時でも、安心でしょう」と仰せられますと、「いや違います。道を歩いていましても、分からない人は、こう手をのばして歩いていますが、親指をとられましたら、もうだめですから、親指を中に握ってでないと歩けません。道を曲がるのでも、陰からヤァッと槍(やり)で一突きやられたら、たまりませんから、大きく曲がって、それに備えます」と答えたのをお聞きになり、「あなたも、そうですか。私とても同じことで、油断をすれば、いつ何時、神様からお暇が出るか分かりません」と言われたという、お話を承っておりますが、金光大神様でさえ、こう仰せられたとすれば、お互いは、どうして信心の油断ができましょう。お互いの信心が、向こうへゆけばゆくだけ、それだけ油断がならないことになります。

(この「我が信心の歩み」は、2009年3月に掲載されたものです)
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