「我が信心の歩み」 (連載第55回)


[五十五]  お供え物にからむ思い出(下)


 母が、郷里から出て来た時のことにちなんで、お供え物の話をしましたので、もう少しお供え物の話をいたします。私としましては、神様のご用を勤めさせて頂くようになったことは有難いことですが、実のところ、信者が持って来るお供え物を受け取るのは、気がすすまず、これには、ほとほと弱っておりました。「あゝ、また持って来た。どうしても受け取らなければならないのか。これさえなかったら、本当にきれいさっぱりにゆけるのになあーーこれでは、まるでおかげを売っているようなものだ」。私の気分は快くありません。それで、これはいけないと思われるお供え物は返しました。

 お供えは、神様へのお供えです。自分は神様の奉公人です。この自分は、神様が養って下さいます。自分のいるものは、必要に応じて、ご主人である神様から頂きます。「持って行かないと先生に悪い」というような思いで私に持って来る物は本当のお供えではありません。そんなお供えを受けることは、神様の思召しにかなわないばかりでなくて、自分の本意にも反します。私はこのように思いましたから、これは神様へでなく、私へであると思われるお供えは、みんな返すことにしました

 私は取次者ですから、取次ぎの本旨にしたがって、このようにしたのです。すると、信者さんは、このことを怖がりまして、世話係から抗議が出ました。

 「先生、あんなことをされましては、怖くてお参りができなくなります。返したりなどなさらずに、受け取ってやって下さい」「お供えなら受け取るが、あれはお供えではないから、受け取らないのだ。お供えとはいうものの、その実、私に持って来るものにすぎないから、私には、そんなものいらないので返すのだ」

 「それがいけません。それなら、そのように教えてやって下さい。先生のお気にはかないますまいが、信者の思いが少々間違っておりましても、やはり、〃お供え〃と書いて持ってくるのですから、受け取ってやって頂きたい。でなかったら、信者は怖くて参れないと申します。それが証拠に、某さんがこの頃お参りしないのも、それがためです。参って来ないようになりましたら、助けようがないのですから、どうか、私どもの申すことを聞き届けて下さい」

 世話係の言うことにも一理はあります。何とかして、一人でも多く助けなければと力んでも、信者の方が怖がって、参って来なくなっては、助けようがありません。「なるほど、それもそうだ」と折れて出ましたものの、私自身としましては、「それでもいい」では、すまされない問題です。返すのをやめて、返すべきものだけを一まとめにして、机の引き出しに入れておくことにしました。

 ところが、ある日、何かの拍子に、その机がひっくり返り、私のこの秘密がばれてしまいました。
「先生、まだこんなことをしておられる」
「これは私の分だ。返すわけにゆかないので、仕方なくためてあるのだ」
「先生、つらいことでしょうが、目をつむって受け取ってやって下さい。先方の思いが、どのようなものでありましようとも…」
「ではそうするか」

 しっぽをつかまえられては仕方がありません。すべてを受け取ることにしましたが、私は、お結界の机に座るのがきらいでした。お結界にはなるべく家内を座らせ、私はお広前の火鉢の前に座ることにしました。実際、私がお結界に座るのと、家内か座るのとでは、目に見えてお供えの高が違うのですから、どうしても、信者が余分な配慮をしないように、私自身が気を遣わねばなりませんでした。

 その年の六月三十日、大祓式の時でしたが、ある信者さんが、大きな鯖(さば)四ひきをお供えしました。教会からは鯛をお供えしましたので、大祓式がすみますと、鯖も鯛もお下げして、時候がら、腐るおそれがありますので、煮つけにしました。日がたつにつれて、鯛はみそのようになり、鯖はもっとひどくなりました。食べてしまうまでに八日ばかりかかりました。

鯛は家族のもの、鯖は私が食べました。その時、私の口は鯖のためにはれ上がりました。これで、私はいい修行をさせて頂きました。御神訓に『何を食うにも飲むにも、ありがたくいただ心を忘れなよ』とありますが、物を食ベて有難いと思いますのは、おいしいものだけで、どんなものでもそうかと言ますと、なかなかそうはゆきません。私は仕合わせなことに、食事は、何でも有難いという思いで頂いていましたので、たとえ、それが腐っていましても、捨てる気持ちにはなれず、神様のお下がりを頂くのに、うまいまずいと言っては相済まないと、有難く頂いて食べさせてもらいました。

 これは、ずっと後になってのお話ですが、ある時、台所の者がどう炊き違えたのか、おかずの焼き豆腐が、とてもからいことがありました。
「先生、今日のおかずは、みんなおあがりになりましたか」
よほどからかったのか、ある書生が、私に言いました。
「ああ、みな頂いた」
「へえ、あんなからいものを」
「あんたは」
「私はあんなからいもの、よう食べません。先生、あれが結構ですか」
「結構だ」
「どうして、あんなからいものが結構です?」
「そう聞くところを見ると、あんたは塩分に用がないとみえる」
「エンブンって、何のことでこざいます?」
「塩分って、塩気のことだ。私はなあ、私の身体に塩分が切れているので、神様が台所の者を使って、塩分を入れてやろうと、あのおかずを下さったのだと思わせて頂き、からいことはからいが、不足どころか、神様にお礼を申して、有難く頂いた」

 こんなことを書生と話し合ったことがありますが、どんな食べ物でも、その味加減のよしあしは間題にならないで、何が出ても不足を言わないで、おいしく食べられるようになりました。それは、八日がかりで、お下がりの鯖を食べさせて頂いたおかげであります。
              
(この「我が信心の歩み」は、2010年1月に掲載されたものです)
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