「我が信心の歩み」 (連載第58回)


[五十八]  教会造作費の支払い(1)


   ここで、お話がかわって、開教当初の教会の模様が、どうであったかということについて、お話しいたします。

 それは、間ロニ間、奥行五間の狭苦しい二階家でした。
階下は六畳二間と二畳一間、奥の六畳の床の間に当たる所に神殿を設け、その前面二畳はお結界に仕切る。その残りと次の六畳の間を参拝の場所、お話をきいてもらう場所に当てていました。また、この家には表の土間から裏へ通じる三尺幅の通り庭があったのですが、そこをゆか掛けして参拝の場所・お話をきく場所を広げたわけです。

そして、この通り庭に置かれていた炊事場を、奥の狭い場所に押し詰めて、これも窮屈なことになっておりま した。

 お広前から台所に通じる畳ときましたら、共同便所への通い口でもあり、台所での煮炊きものの置き場でもあって、畳表は、たちまちに破れてしまい、畳の床に穴があくといった始末で、まったく不便、お粗末極まりないものでした。そして二階の三畳と四畳半が家族の住居と物置場になっており、何しろ天井は低く窓は小さく、その上日当たり がよいので、冬は、まる温室の中にいるようでありましたが、そのかわり、夏になるとたまりません。燃えつくように暑くて、まるで、なべの中で煮られるような具合いです 。

 しかし、私としましては、そこが神様のお家なのですから、私は、この家を、おかげの温室と思わせて頂き、有難く住まわせてもらっていました。

 すると、一年ニカ月目に、江戸堀上通一丁目廿五番地の家が空きましたので、そこに移転させて頂くことになりました。しかし、移転しますには、そのままでは入れません。教会として使用できるように、内部の改造を行わなければなりません。それで、大工さんに造作費を見積ってもらうと「五、六百円はかかります」ということです。ちょう ど、その場に居合わせた世話係が、これを聞きまして、「全部で八百円はかかりますよ」と申します。そこで、私は、即座に「そのくらいのお金なら、今、手元にあるから、 至急、造作に取りかかってもらいましょう」と約束しました。

 その晩のことです。伜(後の銀座教会長)が「先生」と言います。
「何か用か」

「先生、今日、うそをつかれましたなあ」

「どんな?」

「二百円ほどしかないのに、八百円ぐらいの金なら手元にあると……」
 私は、平素から、うそをいってはならんとやかましく言っておりますから、突っこんで聞くのも無理はありません。

「何だ、そのことか。それなら八百円あるのだ」

「どこにあります」

 私は、神様にお願いの伝票を切って、神様の財布から不足の六百円を出して頂くつもりだから、平気なものです。

「心配しなくてもよい。〃おかげはわか心にあり〃で、私の心の中にちゃんとある。うそは言わん。現在二百円しかなくても、普請がすむまでに、あとの六百円おかげを蒙ったらいいのだ」

「それなら、今は手元に二百円しかないが、六百円はお願いしておかげを頂くと、おっしゃればよろしいのに」

「それは、ばか正直というものだ。私は、どこまでも神様に心配して頂く。神様もきっとご心配下さる。信者や世話係に心配かけたくない。今、手元に二百円しかないと言い 、それで八百円の普請をすると言えば、世話係はそれを聞いてだまっておられない。たちまち〃六百円を自分たちの手で〃と心配する。 それで、八百円あると言ったのだ。

私 の親方は、大金持ちだ。奉公人の私が、一生懸命にお仕えしてさえいれば、〃下さい〃と言えば、きっと下さる。親方に出してもらえば、何の文句もあるまい。心配はいらな い。安心してよい」

 こう話して聞かせますと、伜も納得がいきました。

 さて、普請がすみ、移転もさせてもらいましたが、その月の節季の前夜のことです。家内と伜が心配そうな顔をして、

「先生、明日の節季の支払いに、百八十円いりますが、手元には百円しかありません。不足金をどうしましよう」

 と、私に相談を持ちかけました。私はこんな時こそ家内や伜に、生きた信心を教えておかなければならないと思いましたから、

「相談されても、返事のしようがない。私は逆さまにして振られても、何にも出ない。だからこそ、金の出し入れは、あんた方に任せてあるではないか。そんなことは、私の耳に入れないようにしてほしい」

「でも、明日は節季で、どうしても八十円足りませんので……」

「それはご心配なことだ。しかし、いくら心配しても、どうにもならないのなら、神様にお願い申すよりほかないなあ。神様にお願いしなさい」

 二人は言われたように、ご祈念していましたが、ご祈念がすみますと、私に向かって

「先生、おかげが頂けますでしょうか」
と尋ねますので、

「おかげ頂けますでしょうか、というような腰のすわらないお願いでは、とてもおかげは頂けない」

と、私は、そのお願いが、お願いになっていないことを言って聞かせました。

 お互いのお願いの仕方はどうでありましょう。月の一日(ついたち)に、神様に「商売繁盛、どうぞ今日からおかげが蒙れますように」とお願いしても、一日、二日、三日、四日と暇で、十日まで思わしくないと、「この月もだめだなあ。この分では、この月は五百円足りない」と自分で決めてかかり、きっちり五百円足らんことにしてしまうような願い方ではいけません。

いくら商売が思わしくなくても、そんなことは頭におかないで、どうでもこうでもおかげを蒙るのだと、一カ月ずっと願い通すことです。

「節季になっても大丈夫だ。願って、もしおかげがなかったら、ないのがおかげだ。断りをいうまでのことだ」と、ここまで腹ができてほしいものです。
              
(この「我が信心の歩み」は、2010年3月に掲載されたものです)
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