「我が信心の歩み」 (連載第60回)


[六十]  教会造作費の支払い(3)


話を本筋にもどします。伜が「おかげ頂けますでしょうか」と言いましたので、
「そんなことでは、おかげが頂けん」と私が答えますと、伜は、どこからかお金を用立ててこようとでも思ったのか、「ちょっと外出させてもらいます」と言って立ち上がろうとしました。

私は、伜を引きとめました。
「ちょっと待った。尋ねるが、神様と人間とどっちが徳が高いと思うか」

「もちろん、神様です」

「それなら、あんたはどこへ行こうとするのだ。徳の高い神様をさしおいて…」

「でも、先生が、今おかげは頂けんと言われましたから」

「いや、それはあんたの心に、すでにおかげがないから、おかげがないと言ったのだ。神様にお願いしたら、何でもおかげを蒙るのだという思いがあれば、おかげが頂けるのだ。それなのに、あんたのように、お願いしながら〃おかげ蒙れるだろうか〃という思いでは、おかげがないと言うのだ」

「でも先生、節季は明日に迫っています。八十円のお金、今頃からお願いして、明日までにおかげ蒙れるでしょうか」

「神様にお願い申したら、神様が都合よくして下さる。お願いしながら、〃おかげ蒙れますか〃というその心におかげがない。もう一ぺんお願いして来なさい」
 こう私に言われて、御神前でしばらくお願いしていました。ご祈念をすませて、私のところへ来ましたから、

「どうだ、それで安心できただろう」
と聞きますと、

「やはり心配です」
と言います。

「心配だと言うが、あんたは今、何という神様にお願いしたのだ」

「生神金光大神様、天地金乃神様」

「それで結構だが、あんたのお願いした神様は、土人形やわら人形の神様と違うか。土人形やわら人形の神様にお願いしたのでは、心配がなくならないのは当然だ。生神金光大神様の手続きをもって、天地を丸生かしにしておられる親神様にお願いしたら、もう心配はない。もう一ぺん願って来なさい」
 こう言いますと、再びご祈念に行きました。私としましては、こんな時に、信心をたたき込んでおかなければならないと思って、四度ほどご祈念をさせましたが、なかなか私の思うつぼにはまってくれません。私の方は、信者一同の節季のお願いがありますが、そのご祈念をしていると〃教会の造作費の払いは、やはり先生が願っておられる。自分が願いしなくてもよい〃という気分になりますから、それではいけないと思い、「私は寝るから、あんた方もお休み」と言って、信者の願いは心中でして、ともかく形の上だけ寝ることにしました。

夜が明けました。何とか言ってくるだろうと、床の中でもじもじしていますと、伜が来まして、
「先生、やはりおかげが頂けません」
と言いますので、

「それで、私も安心した。今日から私は隠居する」
と言いますと、伜が変な顔をして「何でです?」と尋ねます。

「あんた、今〃やはり、おかげがない〃と言っただろう。神様がおかげがないと言われたとすると、あんたも、神様のお言葉を聞かせて頂けるようになってくれたのだから…」

「それは神様が言われたのと違います」

「では、あんたが勝手に言っているのか。あんたは、今日一日が終ってから、おかげがなかった時に、心配したらよろしい。今日はおかげを蒙る日だ。〃きっとおかげを頂くんだ〃と思ったら、頂けないことはない」
  改めてご祈念をさせたのち、家内の手からお金を伜に渡させ、
「さあ、これで今日の支払いをしなさい」と言いつけました。

お金がきっちりあると思ったのか、
「有難うございます」と言って受け取りましたが、伜が調べますと八十円足りませんので、「先生、やはり八十円足りませんが」と言います。

「あんたは神様が信じられないのか」

「信じていますが、しかし、おかげが……」

「あんたは神様を信じていない。おかげを信じているのだ。だから、願った通りにならんと、おかげがないというのだ。神様を信じたら、願った通りになってもおかげだし、ならなくてもおかげだ」

「私は、おかげを下さいと願っています。おかげを下さらなくても、それがおかげなら、初めから願わなくても、よいことになるのではありませんか。そんなむずかしいこと言われなくても…」

「そこが、あんたにはまだ分からないのだ、お願いしたら心配はいらん。神様が、万事都合よくして下さる。神様の方では、氏子に信心させようとなさるために、いろいろおはからい下さるのであるから、目先のおかげにとらわれて、信心の目をくらまされないようにしなければならない。おかげあってもおかげ、なくてもおかげだ、あんたは目先ばかり見て、理屈を言っているのだ。ここをよく注意しないといけない。あるだけで、みんな払いなさい」

「では、どこと、どこを断りましょう」

「一軒も断り言うことならん」

「でも、百八十円の払いに、百円でみんな払えますか」

「いいや、教会として、一軒でも断り言うことはできない」

「それには八十円足りません。どうして、これがおかげでしょう」

「あんたの信心は、おかげ信心だ。私は、お願いした以上は、その結果が逆であっても、おかげだ。神様は、天地を自由にしておられる神様で、どんなことでもおかげ下さる神様だ。その神様をお祀りしてある教会が、節季の払いができずに断りを言ったのでは、神様のお名前にかかわる」

「でも、百円で百八十円の払いはできません」

「どうも、私の言うことが分からんとみえる。あってもなくてもかまわん。片っ端から払ったらよいのだ」

「でも、足りない分は……?」

「あんた、神様にお願いしたのだろう」

「お願いした上で、これだけ神様から渡されたのだ。それでいいのだ。それを足りないと思うのは、あんたが勝手にソロバンを持つからだ。神様が払って下さるのだ。足りないどころか、これで余るのだ」
懇々と言いきかせてから、払いにかからせました。

その夜の十時すぎ、お広前からさがると、伜が、
「先生、やはり足りました。大口の支払い先が、とりに来ないのです」

「私が、平素おかげ蒙むれば金に不自由しないと言っているだろう。お金は余っただろう」

「はい、よく分かりました。明日のお献供代だけ残りました」
伜も、これでやれやれです。

 翌月の四日の晩です。神様から「氏子、八十円五銭さずけたから下げよ」というお指し図を受けて、五日の日に、すべての払いがきれいにできました。

 御教えに『善いことばかりをおかげと思うな。悪いこともおかげと思え』とありますが、善い事がおかげであるのは、聞かなくても分かっていますが、悪い事までおかげと思えというのは、どうもふに落ちません。『悪い事もおかげ』とは、何だか逃げ口上のよう思われそうですが、一体、善いの悪いのということは、お互いには分からないことが多いのです。目先だけのソロバンをはじいて、善し悪しの区別をつけているだけです。

 百八十円の支払いに対して、どうしても、手元に百八十円のお金がなくてはと言い張る人には、お願いして、百八十円の現金が手に入れば、それが善い事であり、おかげとして受け取れましょうが、足りない場合は悪い事であり、それをおかげであるとは思えません。

 ところが、支払いが百八十円であっても、お願いしていましたら、取りに来ないところがあり、百円しかなくても、支払いが百八十円ある節季を越すことができたとしたら、どうでしょう。これを悪い事と言えますか。神様は、必要ないから百円ですまされたのです。となりますと、百八十円あるのも、百円しかないのも、どちらもおかげです。

 百八十円あるのが善くて、百円しかないのが悪いということは言えません。ですから、金光大神様は『善いことばかりをおかげと思うな。悪いこともおかげと思え』と仰せられているのです。お互いは、滑っても転んでも、おかげであるということを忘れてはなりません。
              
(この「我が信心の歩み」は、2010年7月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧