「我が信心の歩み」 (連載第64回)


[六十四]  わがお取次の精神(3)


私は、いつも〃祈って聞いて頂けないことはない〃と言っていますが、こんな実例があります。――私が教会を持たせて頂いてから、三カ月ほどたちまして、最初のお祭りをさせて頂きました。その時、お参りした信者さんは、男の人は一人もなく、女の人ばかりでした。平素 の参拝者はそうでもないのに、この日に限って婦人ばかりなのには私もびっくりしました。

「神様、今日、お祭りをさせて頂きましたが、お参りの信者は、女の人ばかりでございます。私は、女の人ばかりをお助け下さいと言って 、お願いした覚えはございません。どうぞ、男の信者もお引き寄せ下さいますようにお願い申し上げます」。

 私は、思ったままを神様にお願いしました。すると、それからめっきり男の信者さんのお参りが増えてくるようになりました。稗島教会長の三村喜三郎さん、舞鶴教会長の荒木英三郎さん、それから松本武次さんなど、みんなその直後の信者であります。

 お取次ぎは、蓄音機(ちくおんき=プレイャー)であってはなりません。信者さんのお願いを聞くにしましても、耳から吹きこんで、口 から出すというような蓄音機式のお取次ぎでしたら、これは、本当のお取次ぎとはいえません。もしも、それでよいとしたら、蓄音機には 食事を与える手間がはぶけるので助かります。お取次ぎが、こんな蓄音機式のお取次ぎであって、なんで人が助かりましょう。

 お取次ぎは、ことづてではありません。お取次ぎは頼まれたのだ。任されたのです。是が非でもおかげを蒙らねば、その責を果たしたと はいえません。頼む方は分からないために、軽く考えているにしましても、頼まれた者は、それを軽く扱ってはなりません。神様は、氏子 の悩みを神様ご自身のお悩みとなされ、「氏子の助かりが神の助かりであるから、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と、神様の方か ら手を合わせて頼んでおられ、生神金光大神様がお道をお開きなされたご苦労も、またここにあるのです。

 お取次ぎとは、この神様の前立ち、この生神金光大神様の手代わりです。お取次ぎは、願う人の悩みを自分の悩みとして、お願いの取次ぎをさせて頂くところまで、打ち込ませて頂かなかったら、お取次ぎのご用を果たしているとは言われません。

 日がな一日、お広前の火鉢の前に座って、信者さんの願いごとを聞いていますと、「先生、お疲れでございましょう」と言ってくれる人 がありますが、それが私の役前で、私としては一番楽しみなのです。人は温かい寝床で死にたいと言いますが、私は、このお広前でお話をさせて頂いている時か、ご祈念をさせて頂いている最中に、息を引きとらせてもらえたら、文句なしです。それが私の本望なのです。

 長い間お取次ぎさせて頂いている間には、いろいろな問題に出あいますが、「この信者、仕様のない信者だ」などとは決して思わないこ とです。神様がお引き寄せになったのですから、その信者の助かることだけを心掛けてゆかねばなりません。でなかったら、その信者の願 いごとは、取次者その人によって、全部帳消しになってしまうからであります。

出社の教会長の会合の席で、
「先生、この月、足りません」
と言った者があったので、
「どうして」
と尋ねますと、
「ある信者ですが、その日暮らしで食べかねているのに、あまりお供えが多すぎますので、身の上を案じまして、その人のお供えだけを別にして、三カ月ためておいたところ、果たして、そのお金がどうしてもいるような、事情が起こってきましたので、お米一俵とそのお供えのほかに、若干のお金を足して、持って行ってやりました。しかし、教会の経理は足して持って行っただけのお金が、きっちり足らないことになりました」
ということです。
「それで、その信者さんはどうなった」
「いよいよ食べられなくなっております」
「どうして、そんなことをしたのか。それでは信者が助からん。取次者とは、氏子が助かることを願うのがその役前だ。それを、氏子のお供えをためておいて、それで助けるのは感心できない。それは信者を助けるのではなくて、信者の行きづまり願っているようなものだ。かわいそうに、何で生かしてやってくれないのだ。そんなことをしていては、事が起こった時に、信者は神様におすがりせずに、取次者にすがるようになってしまう。そんなことでは、お取次ぎのご用はつとまらないし、信者も助からん。大体、信者のお供えの額を見るのが間。そんなことは家内に任せておけばよい。こらの信心があやふやでは、そんなものを見ると、かえって信心が曲がるから、あぶない」
と言って、しかりました。するとその時、
「先生、もう一つ聞いて頂きとうございます」
と、別の教会長が口を開きました。
「ある信者さんですが、〃先生、まことに申し上げにくいことですが、今さしずめ、どこからもお金を借りることができませんので、お金を貸して頂けませんか〃と言って来ましたので〃さあ、どうぞ〃と気持ちよく貸しました。その人、大工さんですが、実際、ほかに借りる所がなかったのです。ところが、そのお金を返さないのはよろしいが、参ってこないようになってしまいました。何もこちらはお金を返してもらうつもりはありませんが、そのお金を持ってこないとお参りしにくいのか、少しも顔を見せません。貸してくれと言われて、貸さないわけにはいきませんし、貸して、信心をやめられるということになりますと、これは、どうしたらよろしいのでしょうか。貸したのがいけなかったのでしょうか。困っているのが分かっていて、それをすげなく断るわけにもいきませんし…」
「なるほど、そんな時、三、四十円のお金がないと言って、断らなければならないような先生であっては、どうもならないが……」
「それで、貸したのです。それが何で参らないようになるのでしょう」
「それは罰金だ。あんたのお願いの足らない罰金だ」
「そう言われますと、当たっています」
と言って、頭をかいていました。取次者は、人情に負けるくらいの親切がなければなりません。しかし、人情に負けているだけではお取次ぎのごのご用はつとまらない。そこがむずかしいところです。          
(この「我が信心の歩み」は、2010年11月に掲載されたものです)
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