「我が信心の歩み」 (連載第66回)


[六十六]  人と場合に応じて(1)


 信者の人々の悩み、願いはさまざまであり、一人一人の立場も違っているのでそれにつれて、私の応対も変わってきます。そのいくつかの実例を、ここに話させて頂きます。
      (1) 損するために働くのか

  しばらく顔を見せなかった信者さんが、参って来ましたので、
「一向、お参りしなかったようだが、どうしていたのか」

「お参りしよう、しようと思ってはいましたが、つい忙しくて、ご無礼いたしました」

「忙しいのは結構だが、お商売の方の都合は?」

「それが、あのう…ちょっと、八万円ほど借金ができました」

「八万円は割に少ないなあ。そうすると、一カ月にいくらずつ足りない勘定になるのかなあ」

「そんな勘定は一向に……」

「その勘定をしてみないといけない。お参りしていた時は、おかげを蒙っていたのに、お参りしないようになって、きりきり舞いするほど忙しい目をして、二十五年通算して、八万円の借
金とすると、一年に、三千二百円足りない勘定になる。それで、一カ月働いて、罰金が二百六十円余りということだ。どうもご苦労さま。損するのにお忙しいことで……」

「損するために働いたのではないのですが……」

「でも、そういう勘定になるではないか。一体、商売は損するためにやっているのか、それとも、もうけるためにやっているのか、どっちか?」

「そんなこと、よく分かっておりますが、どうも仕方がありません」

「忙しい目をして損をするなんて、そんな時は、働けば働くほどいけないことになる。それはちょうど、雨降りの日に、洗たく物を干すようなものだ。祈りということは、働いたら、働いただけの効果があるようにという、一生懸命の願いである。お互いは、働いても、働いただけの効果があるかないか、お互い自身に分からないのだから、祈らずにはおれないのだ。あんたが毎日、仮に十二時間働くとして、そのうちの四時間を、私の方へもらいたい。あんたは、八時間働けばいい。それでやってみてごらん。十二時間働いて、月に二百六十円なにがし足りないというが、四時間を信心に使えば、きっと、八時間の働きは有効になる。有効になるかならないか、これは試してみるといい。私の言う通りにならなかったら、信心をやめたらいい。まあ、だまされたと思って、一ぺんやってごらん。やってみたら合点がゆきます」
と話させて頂きました。

  (2)  釘で打たれる神様があるか

 ある時のこと、目に包帯して参って来た人がありました。
「どうされたのです?」
と尋ねますと

「目が悪うございまして……」
と言います。

「あんたは、今日初めて参って来られたようだが、どなたに聞いて参られたのか」

「実は、あのう、易者にみてもらいましたら〃鬼門に向かって釘を打ったのが、金神様の目に打ち込んだので、それで目が悪くなった〃と言われまして、一つお詑びしてもらおうと存じまして……」

 お道では『大地のうちにおいて、金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ』 『日柄方位はみるに及ばぬ。普請作事は、使いがってのよいのがよい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日がよい日柄じゃ。いかに暦をみて、天赦日じゃというても、雨・風が強うては、きょうは不祥のお天気じゃというではないか。日のお照らしなさる日に、よい・わるいはないと思え』といったような御教えを頂いていて、日柄方位の吉凶というような迷信からは、抜けきらせてもらっておりますが、まだ世間には、この方のような人が、たくさんいるようです。しかも、それを本気に信じているのですから、お気の毒です。

 それで、私はその方に頭から、
「ばかな――もっと釘を打ってやりなさい。かりそめにも、神様と言われていて、人間に、自分の目に釘を打たれて、じっとしているような神様なら、神様ではない。もっと釘を打ってやりなさい。人間同士でも、目に釘を打とうと思ったら、三人、四人の人手がいる。一人が頭を押さえ、一人が胴を押さえ、一人が手を押さえ、一人が足を押さえというように、なかなか容易なことでは、釘は打てません。金神様の目に釘を打ったから…そんなことで、目が悪くなったのとは違います」
と言って、話を金神様の話から、天地の親様へうつさせてもらったことがありました。

   (3)  たたかれる病気

 つい先頃のことですが、頭に、こぶをこしらえて参って来た方がありました。
「先生、痛うございます」

「どうしたのです」

「先生、うちの人にたたかれまして」

「そうか。それは痛いだろう。しかし、それは頭痛だ」

「頭痛ですって、頭痛ではありません。たたかれたのです」

「痛いだろうなあ」

「ええ」

「だったら、それは頭痛だ」

「いいえ、頭痛とは違います。たたかれまして……」

「何を言うのか。頭痛だ。頭が痛いのだから、それは頭痛だ」

「そうおっしゃれば、そうも言えますけれど」

「たたかれて痛い目をするのが、あんたの病気だ」

「いいえ、病気なんかしておりません。たたかれただけのことです」

「そのたたかれるということが、あんたが病気している証拠なのだ」

「そんな病気があるのでございますか」

「ある、あるとも。現に、ここに一人いる。ちょっとね、口の養生をしなさい。そしたら、たたかれるようなことはなくなる」
と言わせてもらいました。

  (4)  年寄りも苦労を

 この間も、あるお年寄りが参って来まして
「今の若い者は、一向に気がききません」
と言って、不足のありったけをならべましたので、

「若い者の不足を言うのもよろしいが、あんたは〃年寄りの苦労は買うてでもせよ"ということを知っていますか」

「〃年寄りの苦労は買うてでもせよ"なんてことは、聞いたことがありません。それは先生、〃若い間の苦労は買うてでもせよ"の間違いではありませんか」

「いや、私は〃年寄りの苦労は買うてでもせよ〃と言うのだ。年をとったからといって、ことさら楽をしてもよいということはない。私のような年寄りでも、この通り働いている」

「でも先生、年寄りがばたばた働きますと、若い者から余計にいやがられます」

「年寄りには、年寄りの働きがある。出しゃばるから、いやがられるのだ。いやがられないように働いたらよろしい」

「それなら先生、〃年寄りの苦労は買うてでもせよはいいとしまして、若い者は、一体どうせよとおっしゃるのです」

「若い者か。若い人が参って来たら、〃若い間の苦労は買うてでもせよ〃と言っています。
とお話しさせて頂きました。          
(この「我が信心の歩み」は、2011年1月に掲載されたものです)
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