「我が信心の歩み」 (連載第68回)


[六十八]  人と場合に応じて(3)


  (10)   信心は運命の切り換え

 ある人が、“いそう(人相見のようなもの)”というものを見てもらうと「五月が悪くて九月が悪く、十二月に大難がある。その大難が身体にきたら命がなく、家にきたら家がつぶれる」と言われ、それで神経を病んでいる、と言って参って来た人がありました。そして
「本当にそんなことが分かる。でしょうか」と言います。
「分からんとは言えませんなあ。船頭は気象学者ではないけれど、明日の日和を見る。よく見る人になると、気象台よりも正確なことがある。それは何によって見るかというと、天の相、天相で判断すると言う。熟練すると、そういう勘が働くようになるから、まるで出たらめでないかもしれん。あるいは“五月が悪くて、九月が悪く、十二月に大難がくる”というようなことが、あんたの顔に書かれているのかもしれない」
「先生、驚かさないで、助かる道を教えて下さい」
「天地から、そうなるように、ちゃんと顔に書かれていては…」
「助かりませんか」
「船頭さんには、明日は雨と分かっていても、それをどうすることもできないように……」
「助かりませんか、どうしたら助かります」
「そんなことを気に病んでいたら、ますます、そんな顔になる。“本体の親”である神様に一心に祈って、その運命のスイッチを切り換えて頂きなきい。それが、この道の信心である」
 と言わせて頂きました。

  (11)   身体は借家

 以前に、胸の病でお願いに来た人がありました。大阪へ引っ越して来る前、どこかの教会で、五年ほど信心していたが、一向によくならないということです。
「五年も信心していて、おかげが蒙れないとは、あんたの信心は、神様を信心しているのでなくて、何かほかに信じているものがあるのと違うか。信心とは、まず自分というものをはっきりさせ、神様をはっきりつかまえきせてもらわないと、信心にはなりにくいものだ。あんた、貸家のことを考えてみなきい。貸家を人に貸しているからといって、家に破損ができたり、修繕がまわってきた時、借家人に家を修繕させますか」
「それは家主がすることです。家は家主のものですから、借家人に任せておくようなことはしません」
「そうか。それだけ分かっていたら、信心も分かってくるし、本当の信心もでき、おかげが蒙れ、病気も治る」
「…………」
「ところで、お互いの肉体をみると、肉体は心の住まい、心の家ということができます。その構造も、家とよく似ている。頭髪は草ぶきの屋根で、明かりとりが二つ、それが目だ。小さい窓だが、よく明かりがとれる。その下に、鼻という煙突が一本。口は出入口だ。出入口から通り庭の食道があり、炊事場の胃があり、裏道の腸を通って、肛門に出る。何のことはない、普通の家と変わりがない。お互いは、日々に働かなければならない活動体だから、手足がついているのだ」
「…………」
「ところで、この心の家である肉体は、一体誰の家なのか。自分で建てた覚えもないし、親が新築したものでもない。天地から借りておるものです。昔から、この世を“仮の世”というが、私は、この世は〃借りの世〃と言いたい。だから、この肉体が破損したら、家主に修繕を頼んだらよろしい。病気は、心の家の破損です。自分でどうしよう、こうしようと心配する必要はない。家が破損したら家主に言うていくのが借家人のつとめで、それが借家人というものです」
 こんな具合いに話をしましたら、よく分かったのか、大変喜んで帰りました。
 二週間ほどして、見違えるほど元気になって、お礼に参って来ました。
「先生、私はあれからもう心配しないことにきめて、一生懸命、家主さんに修繕を請求しました。この頃では、熱も出ないようになり、少々働いてもこたえません。何を食べてもおいしく、おかげを蒙りました」
「それは結構。そのかわり、借家人は家賃を払わないといけません」
「えっ、家賃?」
「家賃とは感謝のことです。昔から、みなこの家賃を踏み倒してきている。それは恐ろしいことだ。この身は自分のものではない。貸して下されてあるのだ。それに報いないでは相済まん。わが身はわが身ならずだ。横領にならないよう、家賃の踏み倒しにならないよう、日々の感謝を怠らない信心をさせて頂きなさい」
 と言わせてもらいました。

  (12)   ある学生に

 このあいだも、ある学生さんが「先生、学期試験ですから、いい成績がとれますように」と言って、お願いに参りました。
「ばからしい。そんなお願いが、神様にきいて頂けると思っているのか。試験にいい成績をとりたかったら、平素のらりくらりしていないで、どうして、もっと勉強しない。神様をごまかそうとしても、神様は、そんな口車にはお乗りにならない。大体、あんたは親不孝だ」
「私がどうして親不孝です?」
「年を考えたら分かる。あんたはいくつです」
「ニ十才です」
「昔なら、二十才にもなったら、一人前だ。親のすねをかじって、学校にやらせてもらって、それでぶらぶらしていて、親不孝でないと言えるか。少しは親の手伝いをする気にはならないのか」
「それは仕方がありません。学校に行っていて、親の手伝いはできません。学校へ行くのをやめにしませんと」
「折角、親がやってやるというのだから、やめる必要はないが、親の手伝いができないことはない。親をよく見なさい。困っているではないか」
「何に困っているのです?」
「人手がなくて、困っている。お金を出して、人を雇ってまで、あんたに勉強させてやりたいと、学校へやってくれているのだ。若い時は、仏教でいう六道の辻に立っているようなもので、誘惑が多くて、迷いやすく危ない。テニスだ、野球だ、玉突きだといって、遊んでばかりいないで、心を入れ換えて、親の手伝いもし、勉強もしなさい」
「でも先生、それには身体が二ついります」
「そこだ。身体は一つしかないから、仕方がないというところに、思い違いがある。人間には、身体が三つも四つもいる時がある。しかし、身体は一つしか持っていない。そこで、信心させて頂いている者は、足りないところは、神様に足して頂くようにすればいい」
「どうしたら、よろしゅうございます」
「神様に、一生懸命にお願いするのだ、“私が働かなければならないのですが、学佼へやってもらっていますので、どうぞ神様、あなたが、親の商売をお助け下さいまして、万事都合よくおかげを蒙り、商売繁盛しますように”と、どうして祈らないのか」
 それから何カ月か後のことであります。その学生さんが、
「先生、どうして、もっと早く教えて下さらなかったのです。おかげで、父の商売も忙しくなり、私の成績も上がってきました。この頃では、テニスや、野球をやめて、はっぴを着て運動(家業を手伝うこと)をしています」
と言って、このように信心の報告をしてくれました。


(この「我が信心の歩み」は、2011年3月に掲載されたものです)
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