「我が信心の歩み」 (連載第70回)


[七十]  無限供給のおかげ(1)


 何も、自慢しようと思って申すのではありませんが、私の頭は、若い頃から、とかく清廉潔 白という方へ走りまして「いかにも」と、承知できる理由がなくては、ちり紙一枚をもらうこ とでも、気持ちが悪く、すべてに、意地汚いことが大きらいであります。ですから、教会を持 たせてもらうようになりましてからも、人の弱点をとらえたり、さもしいと思われるようなこ とは極度にさけて、やってきました。思えば、これも信心させて頂いたおかげできれいに過ご させて頂いてきたのであって、まことに有難いことだとお礼を申し上げています。
 正直といえば、お互いみんな正直です。目先だけは、みんな、たしかに正直です。しかし、 その正直さを、どこまで持ちつづけてゆくことができるか、これが問題です。昔から、子供正 直と言います。しかし、この正直なはずの子供でも、うそをつきます。うそは絶対につかない と、心にかんぬきを締めていましても、どうしても、うそを言わなければならない羽目になる ことがあり、うそをつかないつもりでいましても、結果からみると、うそをついたことになる ような場合もあります。
 人の一生というものは、なかなか、すらすらと行かないもので、多事多難であります。とっ かけひっかけ、何が起こってくるか分かったものではありません。事実、一生を通じて、一言 半句も、うそを言わずに過ごせたら、その人は、よほど天地から恵まれた人、おかげを蒙った 人であります。
 先年、ある造船所で、新型の船が建造された時の話であります。その試運転をするというの で、見に来てくれと招かれまして、三人連れで、その船を見に行きました。お昼には、折詰を 頂きましたので、そのお礼に、何かお返しをしなければと思いました。それを、そのままに放 っておかれないのが、私の性分です。何をお返ししたらよかろうかと、いろいろ考えました。 鯛を一荷持って行こうか、それとも腐らないかつお節でもどっさりと持って行こうか、それで は向こうが、かえって迷惑するかもしれない、どうしたらよかろうかと、ああかこうかと思案 してみましたが決まりません。
 さんざん考えた末に、これはやはり、神様にお返しして頂くよりほかないと思いまして、神 様にその事情を詳しく申し上げ、「どうぞ、あなた様のお力によりまして、先方にお繰り合わ せを授けて頂けますように」と、先方さんの様子は分かっていますから、一年間ずっと願わせ て頂くことにしました。「先生、随分、高い弁当代でございますね」「ああ、高い」「それで は先生、うっかり弁当も食べられませんね」と言われましたが、たしかに、その一年間に、十 万円のおかげを授けて頂きましたことは、はっきりしています。
 これはちょっとした例としてお話ししたのですが、私はそういう行き方です。もしも私がこ の神様を信心させて頂いていなかったら、いかにおれは清廉潔白だ、“渇すれども盗泉の水は 飲まず”だと気張ってみましても、どんなに意地汚くなっていたか分かりません。仕合わせな ことには、この神様を信心させて頂くことができましたおかげで、私自身には甲斐性がなくて も、神様が万事に都合のいいようにして下さいますので、何の心配もしないですんでおりま す。本当に有難いことです。
 お互いは、いくら一生懸命になりましても、九十パーセントほど足りないのです。この足り ないところを神様に足して頂かないと、どうなるものでもありません。この足りないところを 神様に足して頂くというのが、私の行き方であります。
私という人間は、まことに鈍な人間です。学問があるかといったら、無学でお話になりませ ん。しかし、そんな私でありますが、私は、自分ほど足りない者はないということをよく知っ ています。それで、私としましては、いくら足りなくても、その足りないところは神様に足し て頂いています。 そうなればこそ、私のような者でも、毎日毎夜、信者さんたちのお願いを聞かせてもらい、 そのお取次ぎをさせて頂けるのです。神様はご主人です。全責任を引き受けて、背負って下さ います。私は、生神金光大神様のお手代わりとして、奉公させてもらっているのですから、ど んなお願いを持って来られても、「はい、お願いさせて頂きます」と言い切れるのです。
 見方によりますと、とても大胆なようですが、私のような気の弱い者が、このように大胆に なれますのは、神様がよいようにお使い下さると信じさせて頂いていればこそです。それでお 取次ぎが勤まりもするのであります。

 私は、教会を持たせてもらいました当初、お広前のご用に専念させて頂こうと思いまして、 信心友だちに、お供をはじめ、一切の会計の仕事をしてもらうことにしました。ところが、 半年ほどたちました時に、「どんなに骨折ってみても、先生のようなやり方では、お金は残り ませんから、会計係をお返しします」と、会計係から愛想をつかされましたが、この癖は、今 になってもなおりません。今日まで、何べん「先生、もう少しお金を使うのに気をつけて頂き ませんと」と、言われたかしれませんが、私としましては、神様から頂いたものを、神様のご 用の一端に使わせて頂くのですから、私は一向に平気なものです。
 以前にも、「会計の方は、どうなっているか」と聞きますと、「はい、出るだけは、入って きます」と言いますので、「そうか。それなら使わなければ損だなあ」と言って、笑ったこと ですが、事実、いるものはいるだけ頂くという無限供給のおかげを蒙っております。
 他の教派や宗旨を引き合いに出して、どうこう言うのは慎まなければなりませんが、他の教 派や宗旨では、お金がいるとなると、神様、仏様にお尻を向け、信者の方を向いて、信者を拝 むようなのもあるようです。寄進だとか、喜捨だとかいって、名目はきれいですが、信者に頼 んで、信者を拝むといった格好です。「檀家のみなさん、本堂の屋根が漏りますから……」と か、「壁が落ちましたので…」とか、信者に向かって手を合わせています。
 ところで、お互いの信心させて頂いている神様は、そのように、人間から、おかげをもらわ ないとやってゆけないような、力のない頼りない神様と違います。このお道では、どこまで も、信者にお尻を向けていくことになっています。どんな場合でも、この行き方によって、助 かってゆく道が、金光大神様によって開かれたのであります。
 以前に、一向宗の方が、ひげをひねりながら
「ぼくの方では、神仏にものを頼むような、汚いことは言わない」
と言いますから、
「どうして?」
「教えがそうなっていて、現世利益を念じたり、現世祈とうをやったりしたら、極楽へ行けな いことになっていて、親鸞様に相済まんのだ」
「そうだったら、現世のことを頼みさえしなければ、極楽に行けるのか」
「そうだ」
「では、君は極楽に行けないなあ」
「どうして?」
「君、病気した時、どうだった。なぜ、お医者さんに診てもらったのだ」
「…………」
「現世のことを頼んではいけないというのなら、なぜ、医者に頼んだりするのだ。そのこと一 つをとってみても、もう君は、極楽行きの資格はないじゃないか」
「…………」
「君は、現世のことを頼むのを、汚いと言うが、お互いの身体は、何にたとえたらよいだろう か。まあ土でできた舟のようなものだといっても、差し支えないだろう。仮に、自分を親舟と するなら、そのあとに、家族という何そうかの子舟を引き連れて、その土の舟が、この浮き世 という荒波の上を、向こう岸めざして、昼夜兼行でこいでいるかたちだ。いつ何時、風や波を くらって、ひっくり返るやら、沈没してしまうやら、まったく行方さだめぬ心細さだ。それな のに“頼んではならん。現世のことは、一切頼んではいけない”と言うのなら、“どぶんとは まって、死んでしまえ”と言った方が、早いことはないだろうか。自分の乗っている舟は、土 でこしらえてある、もろい舟だ。それで安心もへったくれもあったものでない」
「私の方は、神様に汚く向かっている。何でも神様に持って行く。それというのは、人間に向 かって、きれいに行きたいためなのだ」
と言って、私の信じているところを聞いてもらったことがあります。
と言いますのは「人間には、どこまでもきれいに、神様には、どこまでも汚く」というの が、私の行き方でありまして、私は、神様の思召しも、そこにあるのではないかと信じており ます、いくら天地金乃神様を祈らせて頂いているといっても、肝心の祈らせて頂く神様にお尻 を向けて、信者さんを拝んでいたのでは、自分も助かりませんし、教会も立ちゆかないように なり、ついには、神様の御名を汚すようなことになりましょう。
 金光大神様は、御教えの中で『世には、神を売って食う者が多いが、このかたは銭金では拝 まぬ。神を商法にしてはならぬぞ』と示しておられるだけでなしに、『信者に不同の扱いをす な。物をよけいに持ってくると、それをたいせつにするようなことではならぬ。信心のあつ (篤)いのがまこと(真)の信者じゃ』ともおいさめになっており、さらに『氏子がまこと (真)から用えるのは、神もヒレイじゃが、寄進勧化をさせて、氏子を痛めては神は喜ばぬ ぞ』と仰せになり、寄進勧化は、絶対にさせてはならないと、言われておりますのも、さきに 言いましたような意味を込めて、申されたのではないかと思います。
 お道の教師たる者は、この教祖様のおあとを受けて、そういう行き方をさせて頂くよりほか はないと思います。私は神様をご主人と仰ぎ、ご奉公申し上げているものです。ご主人が「借 りよ」とおっしゃれば、仕方がありませんから借りもいたしますが、本筋のところ、「借り よ」とおっしゃるような頼りない神様ではございません。自分が、自分の働きでやっていくの であれば、危ないこともありますが、神様は、私たちと違って張りぼてではありません。です から、信者さんに心配かけないで、何もかも神様にお願い申して、きれいにやらせて頂けるの です、布教は、何も私が布教するのではなく、神様がなさるのです。何度も申しますが、私は 使って頂いているのです。ご奉公申し上げている番頭であります。


(この「我が信心の歩み」は、2011年5月に掲載されたものです)
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