「我が信心の歩み」 (連載第72回)


[七十二]  無限供給のおかげ(3)


 そういえば、船町橋の教会から、江戸堀上通り一丁目七番地の教会(前の教会)へ移転した時もそうであります。船町橋の家につきましては、金光様が「この家にはしばらく」とおっしゃって、私をお差し向け下さったのです。そして、またも家主から、家あけの申し出を受けましたが、最初、これは神様から、また宿替えのご催促だと思っていました。それまでの私は、私の代に、教会の敷地を買わせてもらい、教会を建てさせてもらうとなりますと、そこに、私自身のどんな油断が首を出すか分かりませんので、その辺のところを考えまして、敷地を買うとか、教会を建てるというようなことは、次の代に譲り、私は一生涯、借家住まいで通させて頂こうと、こう心に決めていたのです。

 ところが、つぎの借家を探している時「また、あの神様は、家主から家あけを請求された」といううわさを耳にして、私は、はっとしました。これで二度目の家あけだが、神様が家あけの請求を受けられたとすると、なんという恐れ多いことだろう。何をおいても、神様のお家を買わせて頂くことに骨折らなければならないのに、それを自分勝手に、「私は一生涯、借家住まいさせて頂きます」と決め込んで、そこに気がつかないで、いい気になっていました。これは何とも申し訳ないことです。私は、そうと気がつきますと、何とも相済まないことでしたと神様にお詑び申し上げ、金光様にお伺いいたしますと、「新たに家を求めて、移転してよろしい」とのお言葉でした。三カ所の候補地がありましたが、金光様の仰せに従って江戸堀上通り一丁目の家を買うことに決めました。

 その土地と家とは、ある資産家の所有のものでしたから、売るのを好みませんでしたが、神様のことだから仕方がないと言って、譲ってくれることになりました。それで、その仲介人には、特に世話係でない人を頼んで、万事の交渉をしてもらいました。

 ところで、この仲介役は信心の浅い人ですから、私に向かって言いますのに、
「売買契約がいよいよできましても、先立つものはお金です。今すぐにといってお金が払えますか」
「今、手元には、これといったお金はないが、神様にお願い申しておかげを頂きます」
と私が言いますと、頼りなく思ったのか、
「お願いも結構ですが、四、五万円という大金のことです。契約するにも手付金がいりますし、お金がなくては、頼りなくて交渉しにくいから、ぜひ、その段取りを進めて頂きとうございます」
と言いますのも、無理のないことです。

「私は、決してあなた方の顔をつぶすようなことはしない。神様にお願いして、おかげが頂けなかったら、その時は、あなた方も信心をやめなさい。そのかわり、おかげを頂いたら、あなた方も、もっと信心に打ち込んでほしい。とにかく、交渉はどんどん進めて、まとめて下さい」
と頼んでおきました。

 それから十日ばかりたちました。仲介人二人から、いよいよ話がまとまりましたという知らせを受けましたので、神様にそのお礼を申し上げて奥に人りますと、ちょうどその時、伜が勝手口から帰って来ました。

「先生、敷地を買う話はどうなりましたか。実は、ある信者さんに、ひょっこり出会いましたところが、私をつかまえて〃教会が家あけになるそうですが、敷地をお求めになるのですか。その、ご都合を聞かせてほしい。差し出がましいことですが、もしもお人り用でしたら、○万円ほど余分のお金がありますので、お使い下さっても結構です〃と言うことでした。しかし、私は敷地買い入れの話は詳しく知りませんから、帰って、その成り行を聞いた上で、ご返事しますと、言っておきました」
という話です。

「そうか。たった今、敷地買い受けの交渉がまとまったところだ、これはおかげを蒙った」

それでさっそく、貸して頂き、土地売買の登記もすませて、建築にとりかかることになりました。それは大正六年七月のことでした(大正六年十二月竣工)。

 その頃のことです。ある日、世話係の人たちが、何人も、教会の二階に集まり、何か相談をしている様子でしたが、「先生に、二階へ上がってもらっては困ります」と言います。私は、これは変だと思いましたので、
「何の話です?」
と、ますます聞きたくなりました。

「お道の話をするのと違いますから、気にかけないで下さい」
「それなら、ここで集まってもらっては困る。座敷をあけてもらいます」
「いいえ。つまりは、お道に関係のある話し合いですから」
「では、どんなことか言ってごらん」
「実は、承りますと、教会新築の図面もできたそうですから、私どもとしまして、その建築費につきまして……」
「その相談ならやめてもらいたい。あんた方のような心配は、私は、決してしていない。そんな心配は、神様に渡してしまっているから、あんた方には心配かけない。そんな心配する暇があったら、もっともっと、信心に骨折ってもらいたい。お金のことなら、十万円いろうが、二十万円いろうが、心配していない」
「でも、私どもの立場として、知らん顔できません」
「ご厚意は有難いが、建築費の件は放っておいて下さい。お金はあるのだから、ただ傍観していてもらいたい。ぶしつけに言うと、あんた方の冷たい懐からは、一銭のお金も出してほしくない」
「それは、あまりにもひどい仰せでは…」
「私は、ご本部参りしておさい銭あげる時、お広前でがま口をあけ、その中から、一番大きいのを選んであげなければならないのに、一番小さいのを選んであげる私です。私はいつも、こんな冷たい心を直さなければならないと思っている。あんた方はどうです。失礼なことを言うようだが、私と大差ないのと違うか。そんな冷たい懐から出してもらいたくない。この建築には、実際、手元にお金があるのだから、あんた方に迷惑はかけない」
 と言って、その集まりをやめてもらいました。私としましては、神様にお願い申しておれば、万事よろしいようにご都合お繰り合わせ下さると、堅く信じさせて頂いているからであります。

 ある世話係が「先生、百万円ほどお持ちになりましたら、何年で、お使いになりますか」と質問しましたから、「そうだなあ、まあ一年ですか」と答えますと、「では、五百万円なら、どうですか」と尋ねますので、「やはり一年で使ってしまうでしょう。まあ、物はためしだ。一ぺん持たせてごらん」と言って笑ったことですが、実際、私は、あったらあっただけ出してしまって、よう持っていません。また私には、持つ必要もありません。持っていなくても、必要な時には、神様が何とかして下さいますので、心配いりません。

 私には力はありませんが、神様によって、どうにでもなるのです。私は、さきに、どうにもならない人間に向かって手を合わせ、神様におしりを向けていたのでは助からないと言いましたのは、このことであります。私は奉公人です。ご主人が、ご主人の家をお建てになるのに、奉公人が信者を拝んだり、心配したりする必要がどこにありましょう。いるだけ出して頂いたらよろしいのですから、この点、楽なものです。

 ある日のことです。道を歩いていて、何の気なしに、のこのこと、ある信者さんの家に入ってしまいました。別に、これといった用事もなく、その家に行くつもりもなかったのです。

「先生、どうぞ、おあがり下さい」「いや、別に用事はない。せいぜい倒されなさい。さようなら」と、それだけを言って、その家を出てしまいました。

 そのことが気になったのか、後でお参りして来まして、「先生、さきほど、せいぜい倒されなさいと言われましたが、あれは、一体、どんなおつもりですか」と尋ねました。

「あれですか。あれは、どうやら倒れが回ってきているように思われたから、注意してあげたのだ」
「倒れが回ってきているって?この上、倒されたら、とてもやってゆけません」
「だったら、おかげを蒙って倒されたらよろしい」
「〃おかげを蒙って倒される〃と申しますと」
「いくら倒されても、そのかわり、神様に、その倍額をお願い申してゆきさえすれば、おかげが蒙れる。仮に、百円倒されたら、神様に〃どうぞ二百円〃と、お願いするのだ。千円倒されたら、二千円のおかげが蒙れるように願ってゆけばよろしい。」



(この「我が信心の歩み」は、2011年7月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧