「我が信心の歩み」 (連載第73回)


[七十三]  無限供給のおかげ(4)


 「たとえ、貸しを倒されても〃あれをくれたらなあ〃と思ったり、〃あれがもらえたら、こうするのになあ〃というような信心ではいけない。〃これをもらわれなかったら、払いができないから〃と言うので、〃これがとれたら、これがとれたら〃と思い続けているようなことでは、お願いがお願いになってこない。ほかにもらえるような望みがないと、〃あれをくれたら、あれをくれたら〃と思うより仕方がないだろが、それでは、いくら思ってみても、埒(らち)があかない。埒のあかない方をいくら突っついてみても、埒があきそうなはずがない。それで商売もできなくなってしまう。貸した金はもらえない、商売もできないのでは、行きづまるよりほかない。それで、埒のあく方へ一心に祈っていくのだ」
と、このように話させてもらいました。

 ほどなく「先生、百五十円倒されました」と言って来ました。
「よろしい。そんなものは、もらおうと思ってはいけない。神様に使って頂いたと思って、お礼を申しておきなさい。そして、先方の氏子が立ちゆきますようにと、お願いさせて頂きなさい」

 というような具合いで、六ヵ月ばかりの間に、千六百五十円倒されました。八ヵ月目に「いくらぐらい残ったか」と聞きますと、「先生、五百円だけ残りました。初めて残りました」と言っていましたが、倒されても残るのです。ここが行き方一つというところです。願いは、持ってゆきようです。

 神様に、お願い申してやらせて頂いておりましたら、どのようにでもおかげが蒙れるのです。それを、お互いは〃おれが〃〃わしが〃で、どうにもならないよう、どうにもして頂けないように骨折っているのですから、これほどばからしいことはありません。信心、信心といってみても、こんな信心では、神様がお困りです。いや、取次ぐ先生も困ります。しかし、じっと見ていますと、そのような信心をしている人の方が多いので困ります。

 お互いは、すぐに、ソロバンを持って考えたがりますが、私は、それについては、いつも「ソロバンを持ってはいけない。ソロバンを持ったら信心が減る」と言わせてもらっています。ご承知のように、ソロバンは、ニニンが四と動くものです。二に二を掛ける。何度繰り返してみてもニニンが四にしかなりません。しかし、これでは助かりません。助かりっこありません。ところで、信心の世界でいうソロバンになりますと、ニニンが六にも、二二ンが八にも、二二ンが十二にも、ニニンが十四にも、十六にも動きます。それが〃わしが〃〃おれが〃でソロバンを持ちますと、たちまちに、ニニンが四に落ちてしまいます。せめて、ニニンが十ぐらいのソロバンを持ってほしいと思います。これは、おかげを蒙るうえに、決して無理難題でも何でもないのです。

 「君は、どのように暮らしているか」と、こう聞かれまして、「これこれで、食べてゆけない」と答える人があるとしましたら、それは、ニニンが四です。そこを、おかげ蒙っていってこそ、信心させて頂いている人と言えるのでして、ニニンが四が、二二ンが六になり、八になるのです。

 私は、さきに、 「神様がご主人、自分は奉公人」というお話をした章で、奉公の信心をさせてもらい、事実、おかげを蒙った人の実例を、お話しさせてもらいましたが、も一度その一つをとり上げて考えてみましょう。

 夫婦二人でさえ暮らしかねている人に、その上、六人もの同居人を迎えて、その衣食の道をこうずるなんてことは、とても背負い切れる道理がありません。やがては、その重圧に耐えかねて、一家離散になるよりほかないと思って当然です。もしも、そうならないでゆけたとしましたら、そんなのを奇跡というのでしょう。

 ところで、私から言いますと、そのような見方をするのが、すでにソロバンを持っているからでして、ソロバンを持って勘定していたのでは、二掛ける二は四としか、ソロバン玉は動きようがありません。ところが、私の言いますように、事実、六人を自分の家に引き取ったら、どうなったでしょう。夫婦二人でさえ食べかねていたのですから、八人になったら、食べかねるどころか、食べられなくなるのが当たり前なのですが、それが、食べてゆけただけでなく、いくらかの蓄えさえできたのです。これは、どういうことになるのでしょう。

 ソロバンですと、二ニンが四としか出ないのに対して、おかげは、二二ンが六、二二ンが八、ニニンが十二、ニニンが十四、ニニンが十六と出たのではないでしょうか。こう言っても、決して言い過ぎではないと思います。私が、おかげを蒙るためには「ソロバンを拝むな。ソロバンを拝むと、信心をとられてしまう」と言って、戒めていますのも、そこにあるのであります。

(この「我が信心の歩み」は、2011年8月に掲載されたものです)
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