「我が信心の歩み」 (連載第76回)


[七十六]  お米に不自由しないおかげ(2)


 七月のある夜のことです。ふと見ると、夜遅く、信者がみな帰ってしまったあと、家内と伜(後に銀座教会長)とが、何を思ってか、そろって神様の前に座り、しきりにお礼を言っています。いつもと違って、今夜は大層かしこまっているなあと思いました。同時に、ふと私は目を御神前の八足(はっそく)の上にうつし、そこに、お三宝二台に山盛りになったお米が、お供えされているのに気づきました。そして私は「ははーん、これだな」と思い当たりました。

 これまで、「どうしてだろう。どうしてだろう」と探し求めていた、なぞ解きのかぎを見つけた思いでした。そして、私は思わず、「難義なことだ。困ったことだ」とつぶやきました。

「ちょっと、おいで」
私は、二人の、お礼がすむのを待って、近くへ呼び寄せました。

「私は、もう、あんた方と一緒にいるのは我慢できないから、別居したいと思う」

二人は、私の意外な言葉に、さっと顔色を変えました。
「どうして別居しなければなりませんか」
「あんた方は盗人をするので、一緒におれないのだ」
「先生、人聞きの悪いことを。誰がそんなことをするもんですか」
「誰がって。あんた方二人とも、覚えがあるはずだ。動かぬ証拠を握っているのだ」
「動かぬ証拠ですって。さっぱり分かりません。一体、私たちがどんな盗人をしたというのですか」

「では、言って聞かそう。あんた方は、今、あの御神前にお供えしてあるお米を盗んだだろう」
「いいえ、あれは、おかげを頂いたのです。そうと違いますか。お米が切れているところにお供えがあったのですから、おかげと思って、何度もお礼を申し上げたのです」

「その思いが、間違っている。お供え物は、一体、どなた様へのお供えだと思う。あのお米は、信者さんが、何でも神様にと思って、持って来たお供えだ。それで、ああして神様にお供えしてあるのだ。あれは、私たちのものではない。私たちは、神様から、そのお下がりをちょうだいするのだ。それを、神様から下げるように言われないうちに、これはおかげだなどと言って、お礼を申し上げるとは、何ということだ。あんた方は神様のものを神様のお許しも受けないで、もう自分のものにしている。それは、神様のものをかすめとることになる。それは詐欺横領とも言える。そんな人たちと一緒にいるのは、汚らわしいから、出て行ってもらいたい。片時も一緒にいたくない」
このように話して聞かせますと、なるほどと合点をしてくれました。

「そう承りますと、なるほど、私たちは、神様にご無礼をいたしておりました」
と言って、お詑びを申し入れました。しかし、私はまだ、問いただしておかなければならないことがありました。

「去年、お米のお供えが多くて、置き場に困ったことがあったが、あの時〃こんなにお米ばかりたくさんあっては、始末に困る。できることなら、信者さんがもし気をきかせて、もっと別なものを持って来てくれたらよさそうなものだ〃と、このように思ったことはなかったか」

「それなら、たびたび、そんなことを思いました」
と、正直に答えました。

「それで分かった。そうすると、もうその時から、お米は切れていたのだ。何というもったいないことだ。何にしても、神様にお考えがあってお下げ渡しくださっているものを、自分たちだけの都合で何やかや思うのは、ご無礼であり、おかげの断りになる」

 と、きびしく話して聞かせますと、間違っていたことが分かりまして、家内の口から、「思わぬご無礼をしまして、先生にまで、ひどい目にあわせて、申し訳ございません」という改まりの言葉が出ましたので、私は家内に言いました。

「今日のお米を受け取ったのは、あんたか」
「はい」
「その時に、あんたは、そのお供えを持って来た信者さんに、さぞかしいい顔をしたであろうなあ」
「はい」
「それがいけないのだ。お供え物を持って来た信者さんには、いい顔をするが、持って来ない信者さんには、悪い顔をするとなったら、その結果はどうなる。信者が、お供え物で、お取次ぎの先生の顔色を読むようなことになってくる。そんなお取次ぎのしようでは、信者から助けられる取次者になるだろうが、信者を助けることのできる取次者にはなれない」

 私はこの機会をつかまえて、そのようにクサビを打っておきました。それで、二人は打ちそろって御神前に頭を下げて、心からご無礼のお詑びをいたしました。事実、それからというものは、お米に、まったく不自由することがなくなりました。

 その当時は、五人家族でした。それからまもなく八人になり、十人になり、その後も人数は増える一方ですが、お米をきらしたことはありません。現在(昭和十三年)では、教会内で寝起きしている者は、いつも六十人をくだりませんから、一日に、平均二斗あまりのお米がいるわけですが、一合のお米も買ったことはありません。いや、買わないどころか、少しもお米が減らないのが、不思議なくらいです。毎日毎日、大勢の者が食べでいるのですから、お米が減るはずですのに、次から次へと、あるが上にもお供えがあり、お米には一向に不自由しなくてもよいおかげを蒙っています。これも神様のなさることですから、何の不思議もありませんが、まことに有難いことであるなあと、お礼を申し上げています。

 私は、今、倉にお米が何十俵入っているのやら、さっぱり知らないという無関心さです。私がその勘定をしないのは、私をはじめとして、一緒に働いている人たちはみな、神様から養われているのであって、私がお米の心配をする必要がないからです。私は神様の使用人であり、この使用人が「自分でお米を買わなければ、食べてゆけない」というような奉公はしていないつもりですから、神様も、その奉公振りを受け取って下されて、お米に不自由しないおかげを下さっているのだと思います。

 しかし、私としましては、いつも人が増える時には、そのつど、神様に「今日から、誰某をおかせて頂きます。どうぞ、その食いぶち・入り用をお与え下さいませ」と、お願いの伝票を切らせて頂き、お願い申していることは言うまでもありません。

(この「我が信心の歩み」は、2011年11月に掲載されたものです)
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