「我が信心の歩み」 (連載第77回)


[七十七]  教会造作費の支払い(1)


 ここで、お話がかわって、開教当初の教会の模様が、どうであったかということについて、お話しいたします。

 それは、間口二間、奥行五間の狭苦しい二階家でした。(図面参照)
 階下は六畳二間と二畳一間、奥の六畳の床の間に当たる所に神殿を設け、その前面二畳はお結界に仕切る。その残りと次の六畳の間を参拝の場所、お話をきいてもらう場所に当てていました。また、この家には表の土間から裏へ通じる、三尺幅の通り庭があったのですが、そこをゆか掛けして参拝の場所・お話をきく場所を広げたわけです。そして、この通り庭に置かれていた炊事場を、奥の狭い場所に押し詰めて、これも窮屈なことになっておりました。

 お広前から台所に通じる畳ときましたら、共同便所への通い口でもあり、台所での煮炊きものの置き場でもあって、畳表は、たちまちに破れてしまい、畳の床に穴があくといった始末で、まったく不便、お粗末極まりないものでした。そして二階の三畳と四畳半が家族の住居と物置場になっており、何しろ天井は低く窓は小さく、その上日当たりがよいので、冬は、まるで温室の中にいるようでありましたが、そのかわり、夏になるとたまりません。燃えつくように暑くて、まるで、なべの中で煮られるような具合です。しかし、私としましては、そこが神様のお家なのですから、私は、この家を、おかげの温室と思わせて頂き、有難く住まわせてもらっていました。

 すると、一年二ヵ月目に、江戸堀上通一丁目廿五番地の家が空きましたので、そこに移転させて頂くことになりました。しかし、移転しますには、そのままでは入れません。教会として使用できるように、内部の改造を行わなければなりません。それで、大工さんに造作費を見積ってもらうと「五、六百円はかかります」ということです。ちょうど、その場に居合わせた世話係が、これを聞きまして、「全部で八百円はかかりますよ」と申します。そこで、私は、即座に「そのくらいのお金なら、今、手元にあるから、至急、造作に取りかかってもらいましょう」と約束しました。

その晩のことです。伜(後の銀座教会長)が「先生」と言います。

「何か用か」
「先生、今日、うそをつかれましたなあ」
「どんな?」
「二百円ほどしかないのに、八百円ぐらいのなら手元にあると……」

私は、平素から、うそをいってはならんとやかましく言っておりますから、突っこんで聞くのも無理はありません。

「何だ、そのことか。それなら八百円あるのだ」
「どこにあります」

私は、神様にお願いの伝票を切って、神様の財布から不足の六百円を出して頂くつもりだから、平気なものです。

「心配しなくてもよい。"おかげはわが心にあり"で、私の心の中にちゃんとある。うそは言わん。現在二百円しかなくても、普請がすむまでに、あとの六百円おかげを蒙ったらいいのだ」
「それなら、今は手元に二百円しかないが、六百円はお願いしておかげを頂くと、おっしゃればよろしいのに」
「それは、ばか正直というものだ。私は、どこまでも神様に心配して頂く。神様もきっとご心配下さる。信者や世話係に心配かけたくない。今、手元に二百円しかないと言い、それで八百円の普請をすると言えば、世話係はそれを聞いてだまっておられない。たちまち"六百円を自分たちの手で"と心配する。それで、八百円あると言ったのだ。私の親方は、大金持ちだ。奉公人の私が、一生懸命にお仕えしてさえいれば、"下さい"と言えば、きっと下さる。親方に出してもらえば、何の文句もあるまい。心配はいらない。安心してよい」

 こう話して聞かせますと、伜も納得がいきました。

 さて、普請がすみ、移転もさせてもらいましたが、その月の節季の前夜のことです。家内と伜が心配そうな顔をして、
「先生、明日の節季の支払いに、百八十円いりますが、手元には百円しかありません。不足金をどうしましよう」

と、私に相談を持ちかけました。私はこんな時こそ家内や伜に、生きた信心を教えておかなければならないと思いましたから、
「相談されても、返事のしようがない。私は逆さまにして振られても、何にも出ない。だからこそ、金の出し入れは、あんた方に任せてあるではないか。そんなことは、私の耳に入れないようにしてほしい」
「でも、明日は節季で、どうしても八十円足りませんので……」
「それはご心配なことだ。しかし、いくら心配しても、どうにもならないのなら、神様にお願い申すよりほかないなあ。神様にお願いしなさい」

 二人は言われたように、ご祈念していましたが、ご祈念がすみますと、私に向かって
「先生、おかげが頂けますでしょうか」
と尋ねますので、
「おかげ頂けますでしょうか、というような腰のすわらないお願いでは、とてもおかげは頂けない」

 と、私は、そのお願いが、お願いになっていないことを言って聞かせました。

 お互いのお願いの仕方はどうでありましょう。月の一日(ついたち)に、神様に「商売繁盛、どうぞ今日からおかげが蒙れますように」とお願いしても、一日、二日、三日、四日と暇で、十日まで思わしくないと、「この月もだめだなあ。では、この分では、この月は五百円足りない」と自分で決めてかかり、きっちり五百円足らんことにしてしまうような願い方ではいけません。いくら商売が思わしくなくても、そんなことは頭におかないで、どうでもこうでもおかげを蒙るのだと、一カ月ずっと願い通すことです。「節季になっても大丈夫だ。願って、もしおかげがなかったら、ないのがおかげだ。断りをいうまでのことだ」と、ここまで腹ができてほしいものです。

 以前も、子供がわるいといって、泣いている奥さんがありました。

「泣いたらいけない」
「泣いたら、子供が死ぬのですか」
「あんたに、どうでもこうでも、死なさんという腰がすわっていたら、おかげは頂けるが、"どうか知らん""死ぬんじゃなかろうか"というようでは、おかげは頂けない。"どうでもおかげ頂いてみせる"という心であってこそ助かるのだ」
「本当に助かりますか」
「死なさんという、その心に、おかげがあるのだ」

と言ったことがありましたが、この一心の祈りが、おかげを頂くもとなのです。

御教えの中に、随所で"一心""一心"と仰せられています。たとえば、『神がおかげをくれると思うな。己が一心がもみ出すと思え』『今月今日で、一心に頼め、おかげは和賀心にあり』『迷い信心ではいかぬ。一心と定めい』『神に一心とは迷いのないことぞ』などとありますが、この一心の稽古ができましたら、世渡りの上に心配も不自由もなくなります。

 お互いは、とかく理屈がまじり、愚痴が出るものですから、心配になり、不自由になってくるのです。金が必要な時に、財産家が請け合ってくれたら、安心しますが、いくら「よろしい。明日の何時までに持ってきてやる」と言ってくれても、それが乞食では安心できないのは、なぜでしょうか。それは、相手が信用できないからです。お互いは、天地の親様を信心させて頂いているのです。そして、お互いがこの神様を信用できないとなりましたら、それは、日本銀行に金があるかしらんと疑うようなものです。

 昔、宗派宗派でいろいろな"行"があり、"座っての行""立っての行"などとある中に、"肝(きも)いりの行"というのがあったそうです。これは、色々の行がすんで、最後に橋を渡るのですが、その橋の下は、何十丈とも知れない深い谷であって、橋板の幅は五寸ほどで、四歩、五歩と進みますと、板がゆらゆらとゆれ動くうえに、下をのぞこうものなら、はるか谷底に川の流れが一筋の絹糸を引いたように見える、――それでもう、一度に身の毛がよだち、立ちすくんでしまい、めったに渡りきる者がありません。それで、渡ることのできない連中が、橋ぎわの家に泊り込んでいます。中には、十年がかりで、まだ渡れない人もあるといった有様です。

 ある日のことです。一人の若い坊さんがやって来まして、すたすたと渡ったばかりでなく、また平気で渡り返したのです。それには、みんなびっくりして、
「どうして、あの橋がそんなに平気で渡れるのか」
と尋ねました。

「あなた方は、あの橋が渡れないのですか」
「ええ、どうしても渡れないのです」
「では、これを渡ってごらん」
と言って、畳の上に自分の帯を解いて、すっとのばしました。

「これなら渡れます」
「これが渡れて、どうしてあの橋が渡れないのです。この帯の幅は二寸余り、これが渡れて、幅五寸もある橋が渡れないはずがありません」
「でも、怖くて」
「それは不思議だ。私の足は幅が二寸八分ですから、五寸なら二寸二分残っている。真ん中を歩いても、両方が一寸一分ずつ余る。それが、どうして渡れないのですか」
「それが、われわれにはどうしても……。一歩、二歩はよろしいが、三歩、四歩となりますと、身体にがたがた震えがきまして、とても渡れません。どうして、あなたはあんなに楽々と…………」
「どうしてって、この足で渡るのです」
「いや、われわれの聞きたいのは、渡る時のあなたの気持ちです」
「それですか。それなら、仏様に一心にお頼り申して、と言うよりほかありません」
「でも、万が一にも落ちたら、どうします?」
「絶対に落ちません」
「それでも、もし落ちたら?」
「その時には、仏様が途中で受けとめて下さいます」
「もし受けとめて下さらなかったら?」
「仏様と一緒に心中するまでです」

 と答えたそうですが、神様に祈りますには、この気持ち、この信念がなくてはなりません。神様にお頼り申して渡るのです。落ちるはずがありません。もし落ちたら、途中で、神様が受けとめて下さいます。受けとめて下さらなかったら、神様と心中します。――ここまで信じ込んだら、世渡りに何の心配もいりません。

 お互いは、そこまで神様を信じないで、自分の勝手勘定というソロバンで、世渡りしようとしますから、心配、窮屈になってくるのです。試みに、ソロバンをふせて、その上に乗ってごらんなさい。ずるずると滑って、尻もちをつくのが落ちです。

 古い句に"とび込んだ力で浮かぶ蛙かな"とありますが、目をつぶって飛び込むことです。

"身を拾ててこそ浮かぶ瀬もあれ"とも申します。――神様にお頼りしたら、何んだかんだと考えないことです。迷わず一心にお願い申して、"ままよ"と持っていくのです。『神は平等におかげを授けるが、受け物が悪ければおかげが漏るぞ。神の徳を十分に受けようと思えば、ままよという心をださねばおかげは受けられぬ。ままよとは死んでもままよのことぞ』とありますが、ここまでいってこそ、本当の信心であります。

(この「我が信心の歩み」は、2011年12月に掲載されたものです)
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