「我が信心の歩み」 (連載第80回)


[八十]   わがお取次ぎの精神 (1)


この間も、ある人が、私をつかまえて「ご盛んですなあ」と言いますから、「ご盛んとは、おかしいではありませんか」と言いますと、「いや、この教会ほど、お参りの多い教会はありませんから」と言いますので、「そんなことはありません。停車場を見てごらん。あの乗降者の混雑ぶりはどうです。参って来なければならない人はたくさんいるはずですのに、思ったほどに人の来ないのが不思議なくらいです。

 「それで、私は考えてみましたが、来ない理由が分かりました。それは表に〃教会〃とか〃宗教〃という看板がかけてあるからだ。この〃教会〃とか〃宗教〃という看板が、やって来なければならない人に対して、どうやら敷居を高くしているらしい。誰でも暇があったら、ためしに二、三時間座って見ていてくれたらいい。取り扱わせてもらう問題は、宗教という範囲に限定せず、何でもござれです。

 病院は満員だ。いつ治るやら分からない病院が満員だとしたら、なにしろ、お参りしたらおかげの蒙れるこのお道が暇なはずはない。それは教会、宗教という名が邪魔して、もひとつ、お参りする人が少ないのかも知れん。〃よろず無料相談所〃とでも看板を塗り替えてみるのも、面白いことだろうと思う」と言って笑ったことですが、事実、どんな問題でも、それをお願いで受けて、おかげにして頂くことに骨折らせてもらっています。

 ある新聞記者が「湯川という人は、貧乏ひげをはやして座っているが、ちょっと見ている間に、十五人の問題を片づけた。どんなことでも、その場できまりをつける。不思議なことには、その人たちの名前をよく覚えていることで〃これは悪いことはできないなあ〃という思いがした」と、私を評したそうですが、私は、どのようなお願いに対しましても、真剣に取り扱わせて頂き、天地金乃神様の奉公人、生神金光大神様の手代わりとして、お取次ぎの実があがり、人が助かることに骨折っております。それがお取次ぎの「奉公」精神の真髄ですから。

「先生、先生は何でも願えと言われますが、どんなことでも、お願いなさいますか」と尋ねられたことがありますが、その時、私は「そう、何でも願いますよ」と答えました。御教えに『天地の間に住む人間は、神の氏子。身の上に痛み・病気あっては家業できがた(難)し。身の上安全を願い、家業出精、五穀成就、牛・馬にいたるまで、氏子身の上のこと、なんなりとも、実意をもって願え』ともあります。

 お取次ぎをさせてもらう私としましては、このような思召しを持っておられる神様を、ご主人として頂いている奉公人ですから、どんなお願いでも受けないことには、その役前は果たされません。それで、私は「そうです。何でも願います」と答えたわけです。すると、その人は待っていたとばかりに、「それでは、先生、これから人を殺そうと思いますが、どうぞ、うまく殺せますように、というようなお願いでも受けられますか」と、私をやり込めようと思って、切り込んできました。

 私が、「受けます」と言いますと、その人は「それは、無茶ではありませんか」と言うのですから、どっちが無茶か分かったものではありません。自分の方から、無茶な質問をしておいて、私が「受けます」と言いますと、その人は「それは無茶だ」と言う…。
「いいえ、無茶ではない」
「でも、そんな願いを受けるということは…」
「そういった願いを受けてこそ、事を未然に防ぐという私たちのご用もつとまるわけで、何でも言って来てくれさえしたら、どうにかおかげが蒙れます」

 と、語り合ったことですが、それも神様のご用として勤めさせて頂けばこそ『無学で、人が助けられぬということはない』という御教えどおりに、私たちのようなものにも勤まるのであります。

 ばくち打ちがお参りして来ていたことがありました。何でも、その仲間内でも、相当の顔だそうです。ある時、私のところへ呼びよせまして、 「どこか悪いのですか」
「はい、病気で困っています」
「黙って参っていてはいけません。あんたは、まだ信心が浅くて、神様に信用がないのだから、私もお願いし、あんたもお願いしておかげ蒙るようにしないといけない」

 何からでも話しかけ、手を引っぱらなければなりません。ばくちの話で調子を合わせることもあります。
「この頃商売は、どうです」
「毎日、とられてばかりです」
「ほう、それは残念だ。もっとお願いしなさい。私もお願いしょう」
ばくちに勝てるように願えと教えています。そうすると、次の日は、
「先生、今日は勝ってきました」
「それは結構。しかし、少しお話を聞かんといけないなあ」
「はあ、聞かせてもらいます」

 どうしても、目先のおかげを受けさせなくては、信心になってきません。初めから、神様が有難くて信心せよというのは無理なことで、おかげが有難くて神様に手を合わせるよう持っていくほかはありません。おかげ、おかげといって追い求めているうちに、しぜんにお話を聞き、おいおいお話が頭に入ってきて、信心らしい信心になっていくのです。
それから、一年たったある日のことです。
「先生、おかげ頂きました」
「何のおかげを頂いたのか」
「もう、やめました」
「惜しいことだなあ、やめたのか」
「仲仕の請負をしていますので」
「それは結構だ。実は、いつまでもやめなかったら、一ぺん刑務所に入れてあげようと思っていた」
「先生、そんな無茶なこと」
「何にしても有難いことだ。これで、私もおかげ頂いた」

 こんな調子で人が助かっていくのが、お道の教会であります。

 私は、何でも「はいはい」と言って、受けさせてもらっています。それといいますのも、私が教会を持たせて頂きまして以来、どんな願いでも、おかげを蒙らなければならないと覚悟しまして、七日が十日でも、不眠不休で、命がけでご祈念させてもらって来たおかげであります。どんなむずかしい問題を持って来られましても「困ったことを言って来たぞ。困ったなあ」というようなため息をもらさず、たとえ、自分の骨が舎利(しゃり)になっても、おかげ渡さずにはおれないという思いで、ご祈念させて頂きます。信者さんのお願いを引き受けた以上、そのご祈念をおろそかにするようでは、お取次ぎの奉公精神がつとまっているとは言われません。

 これは、ある信者さんの大病のお願いを引き受けた時のことです。どうしも助けて頂かなければならないので、一心にお願いいたしました。すると、神様は「これはだめだ」と仰せられます。そんな時に「ああ、そうでございますか。では、本人にそのように申します」と言って、ご祈念をやめるわけにはいきません。信者さんのお願いは、神様へのことづてではない。
 取次者として、この私に依頼された以上は引きさがれません。神様が「だめだ」とおっしゃっても、こちらは、どうでもこうでも助けて頂かねばなりませんから、一生懸命にお願いしました。

 神様は「だめだといったら、だめだ」と、ご祈念をしている私を押さえつけられましたが、なおもご祈念を続けていると、今度は横だおしにされました。しかし、息のつづく限りご祈念をし通しました。そして、十分ほどして、またも「だめだ」と仰せられました。

 私は、前後三べん、息のつまるような苦しい目にあいましたが、やっと起きなおって、神様にすがりつくように、四度目のご祈念に入りました。そんなことで、その病人は一週間でおかげを蒙り、お礼に参って来ました。それで私は、神様にお礼を申し上げますと、「それは違う。神が助けたのではない。その方(ほう)が助けたのだ」との仰せであります。
「でも、あなたがお助け下さらなくては、私が助けるというようなことはできません。しかし、あの時は、どうしてあんなにむずかしかったのでございますか。もう少し簡単におかげを蒙らせて頂きとうございます」と申し上げますと、
「いや、あの時はどうしてもだめだったのだ。しかし、その方の取次ぎによって助けることができたのであるから、神がその方に礼を言う」

 というお言葉を頂いたことがあります。お取次ぎも、ここまで真剣にさせて頂きませんと、神様のお気に入るような本当のお取次ぎになってこないのではないかと思います。

(この「我が信心の歩み」は、2012年03月に掲載されたものです)
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