「我が信心の歩み」 (連載第81回)


[八十一]   わがお取次ぎの精神 (2)


私が、お取次ぎのご用をさせて頂くようになった最初の頃、一時間に何人のご祈念ができたかと言いますと、せいぜい十人でありまして、それでは、五十人のご祈念には五時間、百人のご祈念には十時間かかることになります。その頃の私は、信者さんに、これというお願いがあってもなくても、一人一人、一心にご祈念をさせて頂きましたのでなかなかご祈念がはかどりませんでした。

 ところで、私は、ご祈念ばかりしているわけにはゆきません。お話もさせてもらわねばなりません。ご祈念とお話とは、左足と右足のようなもので、左足が出たらその次は右足、右足が出たらその次は左足と、両方の調子が、ぴったりと合わないといけませんので、どんなにご祈念に能率をあげようと骨折ったかしれません。それで、しまいに、一時間に百人のご祈念がさせて頂けるところまでゆかせて頂きました。

 その時分に、こんなことがありました。ご祈念の最中に、ついうとうとと眠ったらしいのです。白神様のお扉(とびら)が鳴りましたので、はっと目を覚ましました。しばらくすると、また眠ったらしい。今度は、二代様のお扉が鳴りましたので、目を覚ましました。

 どうして、ご祈念の最中に眠ったかといいますと、それはご祈念がすらすらといかず、中途でゆきどまるものですから、いつの間にか眠り込んでしまったらしい。三度目は、大神様のお扉が、前のめりに大ゆれにゆれて、今にもその下敷きになって、私の息の根が止まってしまうかと思うような目にあわされました。ご祈念が、ご祈念らしいご祈念にならせてもらえるまでには、なまやさしいことではありませんでした。

 ご本部のご大祭に、お参りした時のことです。その前二日が不眠不休でありましたので、往きの汽車の中で眠らせてもらうつもりでしたが、信者さんも一緒で、話がはずみ一睡もとれません。ご本部に着けば着いたで、信者さんが詰めかけてきまして、横になる暇がなく、夜中の四時を過ぎてしまいました。教祖様の奥城(おくつき)へお参りしなければならないのですが、「これからお参りして、帰って風呂に入ったりしていたら、夜が明けてしまう。三日も夜通ししたら、それこそ肝心のお祭りの最中に、笏(しゃく)を落としてしまうかもしれん」と思いましたので、奥城のお参りはご無礼して寝させて頂くことにしました。

 それで、祭典が終ってから、さっそく奥城にお参りし、ご祈念させて頂きました。ところが、どうもお聞き届け下さったという手ごたえがありません。それで、午後二時頃にまたお参りして、ご祈念させて頂きましたが、その時も、どうも聞いて頂けたように思われません。タ方になってまたお参りしましたが、ご祈念が通じたように思えません。仕方がないので、お参りの絶えた夜中の二時頃をえらんでお参りしましたが、やっぱりだめでした。そこで、私は、私一流の理屈を申し上げずにはおれません。

「私にご無礼がありましたら、私をおしかり下さいませ。しかし、この願いは信者の願いですから、聞き届けて頂かないと困ります。信者は、何も知らないことでございます。これでは、あなたの思召しが分かりません。見当違いではございますまいか」。私は、かまわずこう申し上げました。すると、私の耳に、雷の鳴りひびくように聞こえましたのは、『取次する者が、眠たい時に寝て、起きたい時に起きるようなことで、信者が助かると思っておるのか』という、生神金光大神様のおしかりのお声でありました。私としましては、身に覚えがありますので、ご無礼・心得違いをお詑び申し上げるほかありませんでした。信者さんのお願いは、ことづてではありません。自分にどんな事情があったにしましても、肝心のつとめをおろそかにしては相済まんことだと、肝に銘じさせて頂いたことであります。

 ちょうど、教会を持たせて頂いてから、満二年たってからのことです。ご本部にお参りして、教祖様の奥城の前でご祈念させて頂いていますと、
「これからのご祈念は〃教信徒一同しかじか〃と願え。それで、神は聞き届けてやる」
という仰せであります。
「有難うございます。しかし、それでは私の気分がすみません。私としましては、一人一人、聞かせて頂いたお願いでございますから、一人一人、お聞き届け下さいますように」
「そうか。それでは今、何人ほどのお取次ぎができたか」
「はっきり分かりませんが、おおよそ、五、六百人のお届けはできました」
「時間は何時間ほどかかったか」
「五、六時間は、かかっているように存じます」
「そうすると、一時間に百人だな」
「そうなります」
「それでは、千人のお願いには十時間かかる」
「さようでこざいます」
「五千人となると五十時間かかるが、それができるか」
「それはできません」
「よって、今後のご祈念は〃教信徒一同しかじか〃と願え。それで、神は聞き届けてやるのだ」
まことに有難うございます。できるだけさせて頂きますが、できないようになりましたら、お言葉通りさせて頂きます。どうぞ、お聞き届け下さいますように」

 と申し上げて、引き下がりましたが、事実、二十年間は、このご祈念の初一念を、一日のごとく立て通させて頂きました。

 私のお広前でのご用は、何も昼夜兼行というほどでもありませんが、ひとの目からは、そのように見えるのか、私の身体を心配して「あんたのつとめぶりは、太くて短いやり方である。ものは細く長くが何よりだから、もっと身体を楽にもってはどうか」と、言ってくれた人もありましたが、私には、それほど苦に思われないので、つとまるのです。

 私は、先にお話ししたように、まだ商売していました頃、約六年間神様の仰せにしたがって勉強に骨折り、普通なら、ただ頭でだけ知っていて身体の知らないことを、実地に身体に教え込み覚え込ませました。身体が勉強勉強でたたき込まれていますので、むしろ、身体の方から、じっとしておれないのです。それが、お取次ぎをさせて頂くようになっても、その習性が、お取次ぎの働きの上に現れてきたのであリます。有難いことであります。

 私は、いつも〃祈って聞いて頂けないことはない〃と言っていますが、こんな実例があります。ーー私が教会を持たせて頂いてから、三カ月ほどたちまして、最初のお祭りをさせて頂きました。その時、お参りした信者さんは、男の人は一人もなく、女の人ばかりでした。平素の参拝者はそうでもないのに、この日に限って婦人ばかりなのには私もびっくりしました。
「神様、今日、お祭りをさせて頂きましたが、お参りの信者は、女の人ばかりでございます。私は、女の人ばかりをお助け下さいと言って、お願いした覚えはございません。どうぞ、男の信者もお引き寄せ下さいますようにお願い申し上げます」。

 私は、思ったままを神様にお願いしました。すると、それからめっきり男の信者さんのお参りが増えてくるようになりました。稗島教会長の三村喜三郎さん、舞鶴教会長の荒木英三郎さん、それから松本武次さんなど、みんなその直後の信者であります。

 お取次ぎは、蓄音機(ちくおんき=プレーヤー)であってはなりません。信者さんのお願いを聞くにしましても、耳から吹きこんで、口から出すというような蓄音機式のお取次ぎでしたら、これは、本当のお取次ぎとはいえません。もしも、それでよいとしたら、蓄音機には食事を与える手間がはぶけるので助かります。お取次ぎが、こんな蓄音機式のお取次ぎであってなんで人が助かりましょう。

お取次ぎは、ことづてではありません。お取次ぎは頼まれたのだ。任されたのです。是が非でもおかげを蒙らねば、その責を果たしたとはいえません。頼む方は分からないために、軽く考えているにしましても、頼まれた者は、それを軽く扱ってはなりません。神様は、氏子の悩みを神様ご自身のお悩みとなされ、「氏子の助かりが神の助かりであるから、どうぞ信心しておかげを受けてくれよ」と、神様の方から手を合わせて頼んでおられ、生神金光大神様がお道をお開きなされたご苦労も、またここにあるのです。

お取次ぎとは、この神様の前立ち、この生神金光大神様の手代わりです。お取次ぎは、願う人の悩みを自分の悩みとして、お願いの取次ぎをさせて頂くところまで、打ち込ませて頂かなかったら、お取次ぎのご用を果たしているとは言われません。

 日がな一日、お広前の火鉢の前に座って、信者さんの願いごとを聞いていますと、「先生、お疲れでございましょう」と言ってくれる人がありますが、それが私の役前で、私としては一番楽しみなのです。人は温かい寝床で死にたいと言いますが、私は、このお広前でお話をさせて頂いている時か、ご祈念をさせて頂いている最中に、息を引きとらせてもらえたら、文句なしです。それが私の本望なのです。

 長い間お取次ぎさせて頂いている間には、いろいろな問題に出あいますが、「この信者、仕様のない信者だ」などとは決して思わないことです。神様がお引き寄せになったのですから、その信者の助かることだけを心掛けてゆかねばなりません。でなかったら、その信者の願いごとは、取次者その人によって、全部帳消しになってしまうからであります。

 出社の教会長の会合の席で、「先生、この月、足りません」
と言った者があったので、
「どうして」
と尋ねますと、
「ある信者ですが、その日暮らしで食べかねているのに、あまりお供えが多すぎますので、身の上を案じまして、その人のお供えだけを別にして、三カ月ためておいたところ、果たして、そのお金がどうしてもいるような、事情が起こってきましたので、お米一俵とそのお供えのほかに、若干のお金を足して、持って行ってやりました。しかし、教会の経理は、足して持って行っただけのお金が、きっちり足らないことになりました」
ということです。

「それで、その信者さんはどうなった」
「いよいよ食べられなくなっております」
「どうして、そんなことをしたのか。それでは信者が助からん。取次者とは、氏子が助かることを願うのがその役前だ。それを、氏子のお供えをためておいて、それで助けるのは感心できない。それは信者を助けるのではなくて、信者の行きづまり願っているようなものだ。かわいそうに、何で生かしてやってくれないのだ。そんなことをしていては、事が起こった時に、信者は神様におすがりせずに、取次者にすがるようになってしまう。そんなことでは、お取次ぎのご用はつとまらないし、信者も助からん。大体、信者のお供えの額を見るのが間違っている。そんなことは家内に任せておけばよい。こらの信心があやふやでは、そんなものを見ると、かえって信心が曲がるから、あぶない」
と言って、しかりました。するとその時、
「先生、もう一つ聞いて頂きとうございます」
と、別の教会長が口を開きました。

「ある信者さんですが、〃先生、まことに申し上げにくいことですが、今さしずめ、どこからもお金を借りることができませんので、お金を貸して頂けませんか〃と言って来ましたので〃さあ、どうぞ〃と気持ちよく貸しました。その人、大工さんですが、実際、ほかに借りる所がなかったのです。ところが、そのお金を返さないのはよろしいが、参ってこないようになってしまいました。何もこちらはお金を返してもらうつもりはありませんが、そのお金を持ってこないとお参りしにくいのか、少しも顔を見せません。貸してくれと言われて、貸さないわけにはいきませんし、貸して、信心をやめられるということになりますと、これは、どうしたらよろしいのでしょうか。貸したのがいけなかったのでしょうか。困っているのが分かっていて、それをすげなく断るわけにもいきませんし…」
「なるほど、そんな時、三、四十円のお金がないと言って、断らなければならないような先生であっては、どうもならないが……」
「それで、貸したのです。それが何で参らないようになるのでしょう」
「それは罰金だ。あんたのお願いの足らない罰金だ」
「そう言われますと、当たっています」
と言って、頭をかいていました。取次者は、人情に負けるくらいの親切がなければなりません。しかし、人情に負けているだけではお取次ぎのごのご用はつとまらない。そこがむずかしいところです。

(この「我が信心の歩み」は、2012年04月に掲載されたものです)
TOP
バックナンバー一覧