「我が信心の歩み」 (連載第83回)


[八十三] 人と場合に応じて (1)


 信者の人々の悩み、願いはさまざまであり、一人一人の立場も違っているのでそれにつれて、私の応対も変わってきます。そのいくつかの実例を、ここに話させて頂きます。


     <1> 損するために働くのか
 しばらく顔を見せなかった信者さんが、参って来ましたので、
「一向、お参りしなかったようだが、どうしていたのか」
「お参りしよう、しようと思ってはいましたが、つい忙しくて、ご無礼いたしました」
「忙しいのは結構だが、お商売の方の都合は?」
「それが、あのう…ちょっと、八万円ほど借金ができました」
「八万円は割に少ないなあ。そうすると、一ヵ月にいくらずつ足りない勘定になるのかなあ」
「そんな勘定は一向に……」
「その勘定をしてみないといけない。お参りしていた時は、おかげを蒙っていたのに、お参りしないようになって、きりきり舞いするほど忙しい目をして、二十五年通算して、八万円の借金とすると、一年に、三千二百円足りない勘定になる。それで、一ヵ月働いて、罰金が二百六十円余りということだ。どうもご苦労さま。損するのにお忙しいことで…」
「損するために働いたのではないのですが……」
「でも、そういう勘定になるではないか。一体、商売は損するためにやっているのか、それとも、もうけるためにやっているのか、どっちか?」
「そんなこと、よく分かっておりますが、どうも仕方がありません」
「忙しい目をして損をするなんて、そんな時は、働けば働くほどいけないことになる。それはちょうど、雨降りの日に、洗たく物を干すようなものだ。祈りということは、働いたら、働いただけの効果があるようにという、一生懸命の願いである。お互いは、働いても、働いただけの効果があるかないか、お互い自身に分からないのだから、祈らずにはおれないのだ。あんたが毎日、仮に十二時間働くとして、そのうちの四時間を、私の方へもらいたい。あんたは、八時間働けばいい。それでやってみてごらん。十二時間働いて、月に二百六十円なにがし足りないというが、四時間を信心に使えば、きっと、八時間の働きは有効になる。有効になるかならないか、これは試してみるといい。私の言う通りにならなかったら、信心をやめたらいい。まあ、だまされたと思って、一ぺんやってごらん。やってみたら合点がゆきます」
 と話させて頂きました。

  <2>  釘で打たれる神様があるか
 ある時のこと、目に包帯して参って来た人がありました。
「どうされたのです?」
 と尋ねますと
「目が悪うございまして……」
 と言います。
「あんたは、今日初めて参って来られたようだが、どなたに聞いて参られたのか」
「実は、あのう、易者にみてもらいましたら〃鬼門に向かって釘を打ったのが、金神様の目に打ち込んだので、それで目が悪くなった〃と言われまして、一つお詑びしてもらおうと存じまして…」
 お道では『大地のうちにおいて、金乃神の大徳に漏るる所はなきことぞ』
『日柄方位はみるに及ばぬ。普請作事は、使いがってのよいのがよい家相じゃ。よい日柄というは、空に雲のない、ほんぞらぬくい、自分に都合のよい日がよい日柄じゃ。いかに暦をみて、天赦日じゃというても、雨・風が強うては、きょうは不祥のお天気じゃというではないか。日のお照らしなさる日に、よい・わるいはないと思え』
といったような御教えを頂いていて、日柄方位の吉凶というような迷信からは、抜けきらせてもらっておりますが、まだ世間には、この方のような人が、たくさんいるようです。しかも、それを本気に信じているのですから、お気の毒です。
 
それで、私はその方に頭から、
「ばかな――もっと釘を打ってやりなさい。かりそめにも、神様と言われていて、人間に、自分の目に釘を打たれて、じっとしているような神様なら、神様ではない。もっと釘を打ってやりなさい。人間同士でも、目に釘を打とうと思ったら、三人、四人の人手がいる。一人が頭を押さえ、一人が胴を押さえ、一人が手を押さえ、一人が足を押さえというように、なかなか容易なことでは、釘は打てません。金神様の目に釘を打ったから…そんなことで、目が悪くなったのとは違います」
と言って、話を金神様の話から、天地の親様へうつさせてもらったことがありました。

  <3>  たたかれる病気
つい先頃のことですが、頭に、こぶをこしらえて参って来た方がありました。
「先生、痛うございます」
「どうしたのです」
「先生、うちの人にたたかれまして」
「そうか。それは痛いだろう。しかし、それは頭痛だ」
「頭痛ですって、頭痛ではありません。たたかれたのです」
「痛いだろうなあ」
「ええ」
「だったら、それは頭痛だ」
「いいえ、頭痛とは違います。たたかれまして……」
「何を言うのか。頭痛だ。頭が痛いのだから、それは頭痛だ」
「そうおっしゃれば、そうも言えますけれど」
「たたかれて痛い目をするのが、あんたの病気だ」
「いいえ、病気なんかしておりません。たたかれただけのことです」
「そのたたかれるということが、あんたが病気している証拠なのだ」
「そんな病気があるのでございますか」
「ある、あるとも。現に、ここに一人いる。ちょっとね、口の養生をしなさい。そしたら、たたかれるようなことはなくなる」
 と言わせてもらいました。

  <4>  年寄りも苦労を
 この間も、あるお年寄りが参って来まして
「今の若い者は、一向に気がききません」
 と言って、不足のありったけをならべましたので、
「若い者の不足を言うのもよろしいが、あんたは〃年寄りの苦労は買うてでもせよ〃ということを知っていますか」
「〃年寄りの苦労は買うてでもせよ〃なんてことは、聞いたことがありません。それは先生、〃若い間の苦労は買うてでもせよ〃の間違いではありませんか」
「いや、私は〃年寄りの苦労は買うてでもせよ〃と言うのだ。年をとったからといって、こと
さら楽をしてもよいということはない。私のような年寄りでも、この通り働いている」
「でも先生、年寄りがばたばた働きますと、若い者から余計にいやがられます」
「年寄りには、年寄りの働きがある。出しゃばるから、いやがられるのだ。いやがられないように働いたらよろしい」
「それなら先生、〃年寄りの苦労は買うてでもせよ〃はいいとしまして、若い者は、一体どう
せよとおっしゃるのです」
「若い者か。若い人が参って来たら、〃若い間の苦労は買うてでもせよ〃と言っています」
 とお話しさせて頂きました。

  <5>  神様を水先案内に
「あんた方は、よく信心ができましょうなあ」
「いいえ、どうもできませんので、まことにお恥ずかしゅうございます」
「そうですか。船乗りさんは、昔から、よく信仰するように聞いていますが…」
「昔は、船乗り家業する者は、板子一枚下が地獄だというので、みな、よく信仰をしていまし
たが、近ごろでは、船が変わって、大きな鉄の船になりましたので、どうも信心ができませ
ん」
「そうですか。それでは、航海中に濃霧がかかったら、どうします?」
「濃霧がかかったら、その時は停船します」
「停船してどうします?」
「笛を吹きます。鐘をたたきます」
「どうしてそんなことをするのです?」
「そうしませんと、他の船が来て、衝突するからです」
「でも、そんなことをしていないで、船を進ませたらどうです?」
「そんな危険なことはできません。濃霧がかかりましたら、一間先も見えないようになります。そんな時に、船を進ませようものなら、他の船に衝突するか、暗礁に乗り上げるか、分かったものではありません」
「どうしても船は進められませんか」
「できません。先が見えませんから…」
「ところで、人の世の世渡りだが、航海にたとえられないでしょうか。人生の航海は、生活苦だ、生活難だといって、一間先はおろか、一寸先が真っ暗だ。まことに危険なものです。お互いも、停船するよりほかはないことになる。だが、この世渡りという船は、停船しようものなら、たちまち鼻の下が干あがってしまうので、始末におえません。船の濃霧は晴れる時もあるが、お互いの濃霧は晴れっこなしだ。いつまでも停船していなくちゃならんこともある。それでは食べてゆけません。どうしたらよろしいか」
「さあ、それは…」
「その時は、先の見える水先案内をやとうのですなあ」
「先の見える水先案内とおっしゃいますと…」
「そうです。それは神様です。神様に導いて頂くよりほかに、道がありません」
 これは、私と備後丸の船長さんとの話し合いでありました。


(この「我が信心の歩み」は、2012年06月に掲載されたものです)
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