「我が信心の歩み」 (連載第90回)


[九十] 無限供給のおかげ(3)



 ところで、この仲介役は信心の浅い人ですから、私に向かって言いますのに、「売買契約がいよいよできましても、先立つものはお金です。今すぐにといってお金が払えますか」
「今、手元には、これといったお金はないが、神様にお願い申しておかげを頂きます」
と私が言いますと、頼りなく思ったのか、

「お願いも結構ですが、四、五万円という大金のことです。契約するにも手付金がいりますし、お金がなくては、頼りなくて父渉しにくいから、ぜひ、その段取りを進めて頂きとうございます」
と言いますのも、無理のないことです。

「私は、決してあなた方の顔をつぶすようなことはしない。神様にお願いして、おかげが頂けなかったら、その時は、あなた方も信心をやめなさい。そのかわり、おかげを頂いたら、あなた方も、もっと信心に打ち込んでほしい。とにかく、交渉はどんどん進めて、まとめて下さい」
と頼んでおきました。

 それから十日ばかりたちました。仲介人二人から、いよいよ話がまとまりましたという知らせを受けましたので、神様にそのお礼を申し上げて奥に人りますと、ちょうどその時、伜が勝手口から帰って来ました。

「先生、敷地を買う話はどうなりましたか。実は、ある信者さんに、ひょっこり出会いましたところが、私をつかまえて〃教会が家あけになるそうですが、敷地をお求めになるのですか。
その、ご都合を聞かせてほしい。差し出がましいことですが、もしもヽお人り用でしたら、○万円ほど余分のお金がありますので、お使い下さっても結構です〃と言うことでした。しかし、私は敷地買い人れの話は詳しく知りませんから、帰って、その成り行を聞いた上で、ご返事しますと、言っておきました」という話です。

「そうか。たった今、敷地買い受けの交渉がまとまったところだ、これはおかげを蒙った」
それでさっそく、貸して頂き、土地売買の登記もすませて、建築にとりかかることになりました。それは大正六年七月のことでした(大正六年十二月竣工)。

 その頃のことです。ある日、世話係の人たちが、何人も、教会の二階に集まり、何か相談をしている様子でしたが、「先生に、二階へ上がってもらっては困ります」と言います。私は、これは変だと思いましたので、
「何の話です?」
と、ますます聞きたくなりました。
「お道の話をするのと違いますから、気にかけないで下さい」
「それなら、ここで集まってもらっては困る。座敷をあけてもらいます」
「いいえ。つまりは、お道に関係のある話し合いですから」
「では、どんなことか言ってごらん」
「実は、承りますと、教会新築の図面もできたそうですから、私どもとしまして、その建築費につきまして……」
 「その相談ならやめてもらいたい。あんた方のような心配は、私は、決してしていない。そんな心配は、神様に渡してしまっているから、あんた方には心配かけない。そんな心配する暇があったら、もっともっと、信心に骨折ってもらいたい。お金のことなら、十万円いろうが、二十万円いろうが、心配していない」
「でも、私どもの立場として、知らん顔できません」
「ご厚意は有難いが、建築費の件は放っておいて下さい。お金はあるのだから、ただ傍観していてもらいたい。ぶしつけに言うと、あんた方の冷たい懐からは、一銭のお金も出してほしくない」
「それは、あまりにもひどい仰せでは…」
「私は、ご本部参りしておさい銭あげる時、お広前でがま口をあけ、その中から、一番大きいのを選んであげなければならないのに、一番小さいのを選んであげる私です。私はいつも、こんな冷たい心を直さなければならないと思っている。あんた方はどうです。失礼なことを言うようだが、私と大差ないのと違うか。そんな冷たい懐から出してもらいたくない。この建築には、実際、手元にお金があるのだから、あんた方に迷惑はかけない」
 と言って、その集まりをやめてもらいました。私としましては、神様にお願い申しておれば、万事よろしいようにご都合お繰り合わせ下さると、堅く信じさせて頂いているからであります。

 ある世話係が「先生、百万円ほどお持ちになりましたら、何年で、お使いになりますか」と質問しましたから、「そうだなあ、まあ一年ですか」と答えますと、「では、五百万円なら、どうですか」と尋ねますので、「やはり一年で使ってしまうでしょう。まあ、物はためしだ。
一ぺん持たせてごらん」と言って笑ったことですが、実際、私は、あったらあっただけ出してしまって、よう持っていません。また私には、持つ必要もありません。持っていなくても、必要な時には、神様が何とかして下さいますので、心配いりません。

 私には力はありませんが、神様によって、どうにでもなるのです。私は、さきに、どうにもならない人間に向かって手を合わせ、神様におしりを向けていたのでは助からないと言いましたのは、このことであります。私は奉公人です。ご主人が、ご主人の家をお建てになるのに、奉公人が信者を拝んだり、心配したりする必要がどこにありましょう。いるだけ出して頂いたらよろしいのですから、この点、楽なものです。

 ある日のことです。道を歩いていて、何の気なしに、のこのこと、ある信者さんの家に入ってしまいました。別に、これといった用事もなく、その家に行くつもりもなかったのです。
「先生、どうぞ、おあがり下さい」「いや、別に用事はない。せいぜい倒されなさい。さようなら」と、それだけを言って、その家を出てしまいました。

 そのことが気になったのか、後でお参りして来まして、「先生、さきほど、せいぜい倒されなさいと言われましたが、あれは、一体、どんなおつもりですか」と尋ねました。
「あれですか。あれは、どうやら倒れが回ってきているように思われたから、注意してあげたのだ」
「倒れが回ってきているって?この上、倒されたら、とてもやってゆけません」
「だったら、おかげを蒙って倒されたらよろしい」
「〃おかげを蒙って倒される〃と申しますと」
「いくら倒されても、そのかわり、神様に、その倍額をお願い申してゆきさえすれば、おかげが蒙れる。仮に、百円倒されたら、神様に〃どう二百円〃と、お願いするの〃だ。千円倒されたら、二千円のおかげが蒙れるように願ってゆけばよろしい。

 たとえ、貸しを倒されても〃あれをくれたらなあ〃と思ったり、〃あれがもらえたら、こうするのになあ〃というような信心ではいけない。〃これをもらわれなかったら、払いができないから〃と言うので、〃これがとれたら、これがとれたら〃と思い続けているようなことでは、お願いがお願いになってこない。ほかにもらえるような望みがないと、〃あれをくれたら、あれをくれたら〃と思うより仕方がないだろが、それでは、いくら思ってみても、埒(らち)があかない。埒のあかない方をいくら突っついてみても、埒があきそうなはずがない。それで商売もできなくなってしまう。貸した金はもらえない、商売もできないのでは、行きづまるよりほかない。それで、埒のあく方へ一心に祈っていくのだ」
と、このように話させてもらいました。

 ほどなく「先生、百五十円倒されました」と言って来ました。
「よろしい。そんなものは、もらおうと思ってはいけない。神様に使って頂いたと思って、お礼を申しておきなさい。そして、先方の氏子が立ちゆきますようにと、お願いさせて頂きなさい」

 というような具合いで、六カ月ばかりの間に、千六百五十円倒されました。八カ月目に「いくらぐらい残ったか」と聞きますと、「先生、五百円だけ残りました。初めて残りました」と
言っていましたが、倒されても残るのです。ここが行き方一つというところです。願いは、持ってゆきようです。
(この「我が信心の歩み」は、2013年1月に掲載されたものです)
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