「我が信心の歩み」 (連載第91回)


[九一] 無限供給のおかげ(4)


 神様に、お願い申してやらせて頂いておりましたら、どのようにでもおかげが蒙れるのです。それを、お互いは〃おれが〃〃わしが〃で、どうにもならないよう、どうにもして頂けないように骨折っているのですから、これほどばからしいことはありません。信心、信心といってみても、こんな信心では、神様がお困りです。いや、取次ぐ先生も困ります。しかし、じぃと見ていますと、そのような信心をしている人の方が多いので困ります。

 お互いは、すぐに、ソロパンを持って考えたがりますが、私は、それについては、いつも「ソロバンを持ってはいけない。ソロバンを持ったら信心が減る」と言わせてもらっています。ご承知のように、ソロバンは、二二ンが四と動くものです。二に二を掛ける。何度繰り返してみても二二ンが四にしかなりません。しかし、これでは助かりません。助かりっこありません。

 ところで、信心の世界でいうソロバンになりますと、二二ンが六にも、二二ンが八にも、二二ンが十二にも、二二ンが十四にも、十六にも動きます。それが〃わしが〃〃おれが〃でソロバンを持ちますと、たちまちに、二二ンが四に落ちてしまいます。せめて、二二ンが十ぐらいのソロバンを持ってほしいと思います。これは、おかげを蒙るうえに、決して無理難題でも何でもないのです。

  「君は、どのように暮らしているか」と、こう聞かれまして、「これこれで、食べてゆけない」と答える人があるとしましたら、それは、二二ンが四です。そこを、おかげ蒙っていってこそ、信心させて頂いている人と言えるのでして、二二ンが四が、二二ンが六になり、八になるのです。私は、さきに、「神様がご主人、自分は奉公人」というお話をした章で、奉公の信心をさせてもらい、事実、おかげを蒙った人の実例を、お話しさせてもらいましたが、も一度その一つをとり上げて考えてみましょう。

 夫婦二人でさえ暮らしかねている人に、その上、六人もの同居人を迎えて、その衣食の道をこうずるなんてことは、とても背負い切れる道理がありません。やがては、その重圧に耐えかねて、一家離散になるよりほかないと思って当然です。もしも、そうならないでゆけたとしましたら、そんなのを奇跡というのでしょう。

 ところで、私から言いますと、そのような見方をするのが、すでにソロバンを持っているからでして、ソロバンを持って勘定していたのでは、二掛ける二は四としか、ソロバン玉は動きようがありません。ところが、私の言いますように、事実、六人を自分の家に引き取ったら、どうなったでしょう。夫婦二人でさえ食べかねていたのですから、八人になったら、食べかねるどころか、食べられなくなるのが当たり前なのですが、それが、食べてゆけただけでなく、いくらかの蓄えさえできたのです。これは、どういうことになるのでしょう。

 ソロバンですと、二二ンが四としか出ないのに対して、おかげは、二二ンが六、二二ンが八、二二ンが十二、二二ンが十四、二二ンが十六と出たのではないでしょうか。こう言っても、決して言い過ぎではないと思います。私が、おかげを蒙るためには「ソロバンを拝むな。
ソロパンを拝む」と、信心をとられてしまう」と言って、戒めていますのも、そこにあるのであります。

 教会の近くに、床屋さんがありました。その人が、お参りして来まして「先生、借金で困っています」と言います。それで、私は「よろしい」と返事しました。ところで、この床屋さんはと言いますと、少々もの分かりのよくない人なので、私は、まず最初に、目先のおかげを受けさせた上でないと、だめだと思いまして、そのことに骨折らせて頂きました。こちらの目指すところは改まりであって、何とかして、改まるように仕向けてゆかなければなりません。

 しかし、そこまで持っていくのには、先方が「おかげ、おかげ」と言って、参って来ているのですから、おかげを受けさせてゆかないことには、どうしても、こちらの注文通りのところへ出てきません。いくら頭からやかましく教えを説いて「真とはどんなものか。信心はこうするものだ。信心と商売とは、こんな具合いにさせて頂くものだ」と話してみましても、分かったような顔をしているのは、教会にいる間だけで、家に帰ればたちまち、も抜けのからになってしまうのですから何にもなりません。

 折角、神様がお引き寄せ下さって、お参りするようになったのですから、何をおいても、まずおかげを受けさせたら、そのうちに、だんだん信心も分かるようになるだろうと思いまして、「借金があってもよろしい。それを苦にすることはない。いくら借金があっても、神様に返して頂いたら、それでよいではないか。そのかわり、あんたが勘定したらいけない。どんなことがあっても、勘定さえしなかったら、神様がよいようにして下さる」
 と言いました。すると、
 「先生、勘定したらいけないとおっしゃるなら、どうせよということですか。収入を勘定したらいけないということなんですか」
 「そうだ。しかし、出すものは、よっぽど考えて出すようにしないといけない。が、それは、神様にお願いしておいたらよろしい。神様が、よいようにして下さるから、心配はない。あんたは、ただ、商売繁盛のお願いして、一生懸命に働かせてもらいさえすればよろしい。それで、おかげになってゆく。勘定は、節季の晩しか、してはいけない」
 「先生、私のところは、月に四百五十円ほど要りますので……」
 「よろしい。神様にお願いしておきますから、いくら要ろうが差し支えない。あんたは勘定する必要はない」

 その時の口振りでは、毎月百円ほどずつ足りないようでしたが、とにかく、ソロバンを捨てるように、お話をさせて頂きました。

  その月末に参って来まして、「先生、この月は、おかげを蒙りました」と喜んでいます。
 「それは結構。もっと一心にお願いをさせて頂きなさい」と言っていますと、その翌月は、
 「先生、あんまり頼りないので、仰せにそむいて、勘定してみましたら、この月は足りません」ということです。
 「あれほど堅く、勘定したらいけないと言い渡しておいたのに、どうして勘定したのか」
 「でも先生、毎日入ってきただけのお金は勘定して、金庫の中に入れませんと、何だか頼りなくて、気に掛かって仕方がないのです。が、どうして、先生、勘定したらいけませんか」
 「それは、勘定すると、神様にお願いする心に、ひびが入るからだ。勘定したら、勘定に頭をとられてしまって、おかげが受けられないことになるからだ」
と言って聞かせましたが、その翌月は、またおかげを蒙りました。

 「先生、この月は、節季の一日前に、勘定させてもらいましたが、百円ほど残るようです。この調子でずっとゆきましたら、どうやら、二年で借金なしになれそうです。どうぞよろしくお願いします」

  まるで、何もかも分かり切ってしまったというような口のきき方です。それで、私は言いました。
 「あんた、カミソリを使うなあ」
 「それは先生、私の商売は床屋ですもの」
 「そのカミソリだが、いかによく切れるカミソリだといっても、何でも手当たり次第に、ガリッとそりますか」
「何でもなんて、そんなことはできません。私にとっては、大事な商売道具ですから」
 「それだけ分かっていたら、口というカミソリも、どう使ったらよいか、その使い道を考えないといけませんなあ。あんたの口は、どうも切れ過ぎるようだ。明日からは、もう少し気をつけて…」
 「先生、これは私の性分です」
 「性分だと言っても、人に迷惑かけるような性分は許されない。あんたは、お客さんのひげをあたっていて、〃これ、私の性分です〃と言って、お客さんの顔を、ガリッとやったら、お客さんが来るだろうか」
 「そんなことはしませんが、何ぶんにも、持って生まれた性分ですから、直すのがむずかしいのです」
 「むずかしいと言うのなら、お参りもやめなさい。私も、そんなあんたのことを、お願いできない。悪い性分を改めてゆくのが、信心なのだから…」
 「先生、気をつけます。どうぞ、そんなことおっしゃらずに、お願いして下さい。お頼みします」
と言って、びっくりしたような顔をしていました。

 おかげの有難いことが、だんだんに分かってきますと、こんな具含いに、私の言うことを素直に聞いてくれるようになってきました。
 
 そんなある日のことです。「先生、この調子でしたら、どうやら正月までに、借金なしにさせて頂けるような気がします。私は、さきに、二年とお願いしましたが、こんなにとんとん拍子におかげが頂けるのでしたら、二年なんて言わなければよかったと、くやんでいます」と言って喜んでいましたが、今度は、果たして正月までに借金か返せるかどうかか気になって、またこっそり勘定してみたらしいのです。
 「先生、勘定したら、また足りません」
 「ふーん」
 「先生、鼻先で笑わないで下さい。勘定しましたら、この月、六百円しかありません。どうして勘定したらいけないのですか。そのわけが、どうしても分かりません。何か、お呪(まじな)いでもされているように思われて、気持ちが悪くてなせん」
 「お呪いとはよく言った。勘定したら、それが、おかげの蒙れない呪いになるのだ」
 「私の聞かせてもらいたいのは、そこのところなのです。どうぞ、そこのところを分かるように、教えて頂きとうございます」
 「それは、勘定すると、お願いする心に狂いが生じるからだ。おかげがあればあるで、〃まあ、これなら安心だ〃という心になり、おかげがなければないで、〃この調子だと、どうなることだろう〃と心配して、そのつど、心がぐらついてしまう。何も勘定してはいけないということはないが、信心がしっかりしていないと、折角の祈りが、どっちに傾くか分からないから、勘定するなと教えるのだ。おかげは、祈るこちらの心にあるのだ。一心にお願いしているといっても、こちらの心が、やれやれと思っていては、それだけ心にすきができる。たとえ、手を合わせていても、心にすきがあっては、おかげにならない」
と、話させてもらいました。

 一心にお願いしながらも、あれかこれか、ああもしようか、こうもしようかと、勝手勘定というソロバン玉を、性こりもなくはじきますのは、自分自身がどんなものであるかということを知らないからです。どうでもこうでも神様におすがり申し、すべてをお任せ申して、神様によって、ああもして頂き、こうもして頂くよりほかない自分であることが分かりましたら、そういう迷いの気持ちは起きないはずです。

 そして、お願いする手が、この通りに、ぴったりとくっついて、水も漏らさないようにすきがないということ、それであってこそ、尽きることのない無限供給のおかげを蒙らせて頂けるのであります。
(この「我が信心の歩み」は、2013年2月に掲載されたものです)
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