「我が信心の歩み」 (連載第92回)


[九十二] めぐりについて(1)


 何かよくないことに出あったりしますと、「これはめぐりのお取り払いだ」」と、よく言われます。この〃めぐり〃ということにつきましては、教祖様の御教えの中には、御理解の第三節に

 『天地の間に氏子おっておかげを知らず。神仏の宮・寺、氏子の家やしき(宅)、みな神の地所。そのわけ(理)知らず、方角・日柄ばかりみて無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受けおる』

 と出ているだけです。しかし、この御理解によって分かりますように、今日までお互いが、天地の間に住まわせて頂き、神様のお恵みを受けておりながら、そのお恵みに感謝することを知らないで、天地の親様の思召しにそむいて、まるで鬼子同様に、何もかも、〃わしが〃 〃おれが〃と、〃我〃を立て通してきたのです。

 そして、知らず知らずの間に、はかり知れないご無礼・お粗末・不行き届きを積み重ね、そのために、前々のめぐり合わせで難を受けることになるのは、むしろ当然でありましょう。そこでお互いはみな、一応はめぐり深いものであると考えなければならないということには、異論はありますまい。

 それで、私はめぐりについて――理論的には、それがどういうことになるか知りませんが――私が信心を進めてきたその途上で、実際に感得させて頂いたことを、いくらかお話しして皆さんのご参考に供したいと思います。〃めぐり〃ということについて、こんな体験もあるということを知って頂けたら結構でございます。

 私は、商売をしていた時代に、長男をはじめ、五人もの子供を幼い間に死なせましたが、そのたびに、神様から聞かせて頂いたお言葉は「めぐりのお取り払い」でありました。そして、この「めぐりのお取り払い」というのは、ただ、子供を死なせた時ばかりでなく、商売の上で損をした時は無論のこと、何かこれという変わったことがあるたびに、聞かせて頂いたものです。

 そこで、これは私のひとり勝手な考えでありましたが、これだけ何べんも「めぐりのお取り払い」があったら、どれだけのめぐりがあったにしましても、大分帳消しになったであろうと、私は一人で決め込みまして、もう、お詑びすることをやめにしました。
 
 すると、ある晩のことてしたが、私はこんな夢をみました。
――二人残っている子供のうち一人が、熱病にかかって、五日目に死んでしまいます。そこで、私はその死体を神様の前に持って行き、

「何も、子供が死んだことに不足を申そうとは思いませんが、私は、この子供を医者にかけておりません。それは、あなたがおかげを下さると信じていたからです。死ぬものなら、どうして死ぬと言って下さらなかったのです。もちろん、それは、私の信心が足りないためですが、私は、前にも子供を死なし、今また、この有様です。死ぬものなら、死ぬと言って下されば、医者にも診せ、親として、できるたけの手当てをしてやるところでした。それなのに、親としての務めを十分に果たさせないで、お引き取りになるとは、どう考えても納得がゆきません。もう一ぺん、元どおりにして頂きとうございます。そして、医者にかけた上で、引き取って下さい。それでなくては、私自身が満足できないばかりか、世間に対しても顔向けができません。このままでは、世間の人が何と言うか分かりません。世間の人は分からないのですから、分からない人に分かるようにして頂きとうございます。〃信心しているものだから、子供が病気をしても、医者にもかけずに死なせた〃と言われて、あなたも私も、分からず屋にされてしまいます。それが、私にはたまらないことです」

 と、心のありったけを口に出して、神様に談じ込んでおりますと、お扉がパリッと音をたて、神様がお現れになりました。神様のお顔はお扉のかげに隠れて見えませんが、私は、相当に気が立っておりますから、頭を下げたりなどいたしません。

「おっしゃりたいことかあるなら、何なりと承りましょう。私にも申しげたいことがあります」

 まさにひざ詰め談判とでも言いましょうか、神様を向こうにまわして、大変な意気込みです。すると、神様が私に向かって、

「こうなるのも、先祖の罪によってそうなるのだから、しばらく辛抱せよ。こうしないことには、その方の身が浮かばれないのだから」

 というお言葉です。
 ところが、私としましては、もう先祖の罪もおおよそ消えているだろうと思っていますから、いくら神様の仰せだからと言って、黙ってあっさり引きさがるわけにはゆきません。

「私は、もう先祖のめぐりは、何もないと思っておりますが」

と、口ごたえしました。すると、神様は、

「まだまだ、たくさんあるのだ」

と仰せられます。

「ああそうでございますか。それなら子供もまだ残っていることですから、それも、しかるべくお引き取り下さいますように」

 と返事しました。

 少し分かったと思うと、すぐそれに続く文句がこれです。これが、神様を本当に信じていない証拠なのですが、そこに気がついていないから、少しでも気に入らないことがあると、不足のありったけを思うままに口走ってしまいます。するとその時、神様から、「その方は、ちょっと気に入ることがあれば、大層喜び、一つ気に入らないことがあれば、大層不足を言う。それは、神を信じていないからだ」

 と仰せられましたので、私は、玄能で脳天を打たれたようにびっくりして、

「恐れ入りました」

 と、思わず声を出したと思うと、はっと目が覚めました。今のは夢であったのかと、あたりを見まわしましたが、夢にしては、あまりにもはっきりしていますので、軽々しく取り扱えない思いがしまして、早々に床を離れて顔を洗い、御神前に燈明をあげて、神様にお礼を申し上げようとしますと、実際にお扉があいていますので、夢の中でパリッと音がしたのは、本当に神様がお出ましになったのだと、恐ろしくなってきました。それで、家内をゆり起こして、

「今、こんな変な夢を見たので、お礼を申し上げようと思ったら、お扉があいている。これは夢ではない。二人の子供のうち、どちらかが死ぬのだ。これは、ちゃんと決まっている。何にしても、神様のおはからいにお任せして、お詑びするだけは、一心にお詑びさせて頂かねばならない。まだまだ罪の深い私たちなのだから、一心のお詑びよりほかに道はない」
 と、言い聞かせました。

 そのうちに、家内が妊娠して、生まれた子は女の子でした。五日目に、神様から、

「医者にかけておけ」

とお知らせを頂いたので、すぐに医者にかけましたが、それから五日目に、その子供は死にました。このことを神様に申し上げますと、

「大厄小厄、また大厄小厄」

という仰せであります。

 私は、この時「有難うございます」と申し上げましたが、本当に心の底からお礼の言葉が出ました。夢で教えて頂いて、一生懸命にお詑びしておりましたら、すでに授かっている子供が死ぬところを、新たに生まれてくる子供に振り替えて頂いたのであります。

 信心させて頂くまでは、私自身、ほかからとがめられるような悪いことをした覚えはないと、相当に強い自信を持っていました。私は、そう断言しても恥ずかしくない真っすぐな道を通って来たつもりでいたからです。信心させて頂くようになりましてから、これまでの行き方を、信心という立場から見ると、

「あれはご無礼だった。これは心得違いだった」

 ということも分かってきましたが、そういうことをのぞいたら、私は、世間で罪と言われるようなことをした覚えはありません。

 そこへ神様から「先祖の罪のお取り払い」と聞かされ通したのですから、私としましては、最初の間は、どうも、ふに落ちかねていました

 それで先のような夢の中の問答となったのであろうと思いますが、何にしましても、親先祖このかた、天地の間で神様のおかげを蒙って生かされておりながら、そのご恩徳を知らないで、神様の思召しとは、まるで反対の方角に向かって、〃わしが〃〃おれが〃では、神様から遠のくばかりです。明るい喜びの天地を暗い悲しみの天地に、住みよい有難い天地を住みにくい恨み憎しみの天地にしてきたことを思いますと、親先祖以来の罪は、どれだけあることでしょう。神様からお言葉を聞かせて頂かなくても、天地に対するご無礼という事実は、どうしても打ち消すことができないように思われます。

 したがって、お互いの信心におきましても、初代の信心は骨の折れるものであると覚悟せねばなりません。実際、初代の信心は、むずかしいところを通ってゆかねばならないことになっています。

『もと(本)を執って道を開く者は、あられぬ行もするけれども、のちのちの者は、そういう行をせぬでも、みやすうおかげを受けさせる』。

 これは、教祖様がお道立てのお覚悟のほどを示されたお言葉です

 しかし、教会を開く者、または信者においても、初代の信心には、このような決意が大切であることを、教えられたものと頂くことができます。

 人一代の信心について言えば、苦労が多いのはまず初めの十年でありましょう。十年の信心が一番迷いやすく一番骨の折れる時期であり、神様の方もまた、お骨折りの多い期間であります。

 御教えに『信心は日々の改まりが第一じゃ』とありますが、お互いは改まりによって、それだけずつ罪が消されていきます。千貫目のものを百貫目にしてもらうように、大を小にしてもらう。そこは、めいめいの信心次第、改まりよういかんで、大を小に縮少して頂けることになっています。

 そこで、その間こそ神様が最もご苦労下さっている時期であります。それがお互いには分からないものですから、いろいろ不足をならべたてるのですが、神様のご苦労のほどを考えさせて頂きましたら、それはまことに、もったいないことであります。 

何から何まで、神様のおはからいでないものはないのであります。
(この「我が信心の歩み」は、2013年3月に掲載されたものです)
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