「我が信心の歩み」 (連載第93回)


[九十三] めぐりについて(2)


 しかし、神様のお言葉のなかに、私が尋ねもしないのに、友だちの某のことまで仰せられたのが、気にかかりました。

 この某のことをよく知っている人に、その真否をただしてみなければ私の気がすみません。そこで、その某の氏素性を知っている友だちを訪ねました。

 「神様から、こうこうしかじかと承ったのだが、その時に、某について、〃三代前に三島でこれこれのことをしていたので、そのため、四十台にならないと金は持てない〃と、余分のことまでおっしゃったが、君はどう思う?」
 と、聞いてみました。この友だちというのは、大変な理屈屋で「めぐりなんて」と、頭から反対する性分でしたが、私の話を聞き終ると、いつもとはまるで様子が違い、
 「ふん、そうか。それでは、君はよほどお詑びしないといかんなあ」
という意外な返事でありました。私は、
 「君、今日にかぎって妙なことを言うなあ。どうしてお詑びせねばならないのか」
と、聞き返しますと、
 「それが、ぴったりと思いあたることがあるからだ」
 「何が?」
 「その某は、以前は、三島に住んでいたので、初めから大阪の人ではないのだ」
 「ふーん、そうか。では、三島というと?」
 「何でも九州だと言っていたように記憶している。親がその三島にいたと言っていた」

 そこで、私は神様から承ったことと思い合わせてみて、どうしても、神様の仰せをそのままに受けとらせて頂くよりほかはないということが分かりました。そしてまた、その後に起こったある事柄によって、いよいよ、〃めぐり〃ということを確認しないではいられなくなりました。
 
その「ある事柄」について、次にお話しします。

 北の新地に、相原という家がありました。心やすかったので、よく行き来しておりました。

 ある日のこと、訪ねて行くと、まるで手まりに目鼻をつけたような、かわいらしい一匹の犬がいたので、私は思わず、
 「かわいい犬ですなあ」
と言いました。すると、
 「よろしかったら、あげましょうか」
 「くださるのでしたら、もらいましょう」
 「実は、ふん尿を垂れながしにするので、困っているのです」
 私は、かまわず、その犬をもらって帰りました。
 
 大きな犬と違って、小さな犬のことですから、ありあわせのみかん箱にわらをしいて、飼っておりました。
 ある日、友人がやって来て、
 「いい犬だなあ。いくらで買った?」
と聞きますから、
 「もらって来たのだ」
 「もらった?こんないい犬を。本当は買って来たのだが、奥さんの手前、もらって来たと、うそをついているのと違うか」
 「うそじゃない。本当だ。ほしかったらあげるよ」
 
 そこへ、家内が出て来て、
 「私は、犬はきらいです」
と言いますから、友人は、
 「それなら幸いだ。ぼくがもらおう」
 「それでは、持って帰ってもらおう」

 こんなことから、その犬は、友人の家で飼われることになりました。それから、一週間ばかりたって、友人がやって来て、
 「君、妙なことを尋ねるが、あの犬は、君のところにいた時に、どれくらいご飯を食べていたか」
という質問です。

 「そうだなあ。湯飲み茶わんに二杯で、余していたようだ」
 「ふうん。それは本当か」
 「本当だとも、どうして、うそをついたりするものか」
 「いや。どうも、ふに落ちないことがあるのだ。あの犬は小さいくせに、ばかにたくさんご飯を食べるので、尋ねているのだ」
 「へえ。たくさんと言ってどれほど?」
 「あんな小さな身体で、一日に六合から食べるのだ」
 「六合?生まれてから、六十日ほどしかたってない犬が…」
 「ぼくの家は三人家族だ。一升たいたら余るのだ」。

 ところが、あの犬をもらってから、毎日一升五合ずつたいて、犬に六合やっても、まだ食いたりない様子をしている」

 「そんなに食べさせなくてもよいのに」
 「家内が、食べたいだけ食べさせないと、気がすまないと言って、食べさせているのだが、朝から晩まで、のべつまくなしに食べている」

 私は、この話を聞きながら思い出したのは、『犬・猫も家族のうち』という金光様のお言葉でした。

 「君、犬のことをお願いしたか」
 「いいや。お願いしてないが、どう言ってお願いするのか」
 「金光様は、『犬・猫も家族のうち』とおっしゃっているのだから、犬を飼うとなれば、それだけ家族が増えることになる。だから、お願いしなければならない。それで、お願いはしたかと尋ねているのだ」
 「いや、そんなお願いはしていない」

 「それはいけない。〃犬が好きですから、飼わして頂きます。どうぞ犬の食いぶちも、ともにおかげを下さいますように〃と、こうお願いしておくのだ。そうすれば、たとえ犬が一升めしを食べても構わないではないか」
 「なるほど」
と言って帰りました。その翌日も友人がやって来て、
 「君、あの犬は不思議な犬だなあ。ご飯を余り食べなくなった」
 「たくさん食ベないように願ったのか」
 「いいや、君からあの話を聞いて、その通りにお願いしたのだ、すると、それからは湯飲み茶わんに三杯ぐらいしか食べなくなった」
 「そうか。それは、いい経験をした。犬で、信心を教えて頂いたのだ」
と、あとは笑いでまぎらわせましたが、私は、この一例によっても、お手伝いや店員を雇うのにも、この方法でゆきさえしたら、何人雇わせてもらっても、食いぶち一切、滞りなくおかげが蒙れることを、一層はっきりと分からせて頂けました。

 さきにお話ししましたが、私は家族の者だけでも、その日の生計が手一杯であるのに、神様にお願い申して三人までも居侯をおいて、それでいて何の屈託もなくおかげを蒙りましたのも、この犬の実例から分からせてもらった筆法を、実地に応用きせて頂いたわけです。

 この筆法は、食べること、着ること、住むことなどの生活問題すべてを解決することのできる筆法ですから、単なる犬の話だと聞きながさないようにして頂きたい。

 また、夫婦二人で暮らしかねていた背負いの雑貨屋さんが、六人の身内の人たちを引き取って、おかげを蒙った話をしましたが、これもまた同じ筆法から割り出したものです。そのようにおかげが蒙れるか蒙れないかの違いは、すべて、お互いが、自分自身の頼りないこと、力のないことをはっきり知って、真に神様をお頼り申すことが、できるかできないかの違いによるのであります。

 この間も、ある方が、
 「先生、私はこれだけ一生懸命に信心していますのに、もう一つおかげになりませんので、困っています」
と言いましたので、
 「なるほど、あんたは一生懸命に信心しているように見えるが、本当は、あんた自身を信心しているのであって、神様を信心していないのとは違いますか。信心というものは、秤(はかり)で物をはかるように数量的にきめることはできないが、分かりやすいように、その割合を言ってみますと、あんたは、神様を何割信じているか、私の目から見たら、たかだか五分ですか。あとの九割五分は、〃わしが〃というものを信じているように思われる。私の言うことが間違っているかどうか、まあ、家に帰ってから、よく調べてごらん」
 と、私は言っておきました。
 これは、この方ばかりに限りません。 みな、似たり寄ったりです。「自分は、何割ほど神様を信じているだろうか」と、よく吟味してみなくてはなりません。それでその場合、仮に、三割だけ神様を信じているとすると、あとの七割は、何を信じているのでしょう。相変わらず、この〃おれが〃〃わしが〃という〃我〃を信じている。頭を打ちつづけて、手も足も出ないようになるまでは、どうしても神様をまるまる信じ切れません。 むしろ頭を打つだけ打った方が、信心の近道かもしれません。

 「おれには金がある」「わしには腕がある」「おれには知恵がある」「わしには学問がある」と、こういう思いを持っている人は、その鼻っ柱をへし折られて、よほど痛い目、つらい目にあわないと、なかなか容易に、自分自身がどんなに力のないものかということが、はっきりしないものです。

 しかし、こんな信心は、同じ信心でも不細工な信心です。簡単に言えば、あとから信心する者は、先の者が体験してくれたところを、自身の生活の上に実践して、おかげの花を咲かせ、実を結ばしたらよいのであって、それには、理屈なしに信じることが何より大切であります。
(この「我が信心の歩み」は、2013年4月に掲載されたものです)
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