「我が信心の歩み」 (連載第94回)


[九十四] めぐりについて(3)


 話がわき道にそれましたが、あの犬の話を続けます。それから四ヵ月たったある日のことです。

「君のところからもらった犬が、車(=荷車)にひかれてけがをしたか ら、君もお願いしてやってほしい」
と、友人が言って来ましたので、
「では、お願いしよう」
 と、神様にお願いしましたら、神様が、
「それはめぐりだ」
と仰せられました。

 私は「犬にでも、〃めぐり〃というようなものがあるのかしらん。神様は、なんでもめぐりだと仰せられて、片づけられてしまうのと違うかしら」と、心の中でつぶやきました。
 
 それから一週間目に、友人の妻君がやって来まして、
「湯川さん。今朝、神様に犬のことをお願いしていましたら、妙なことが耳に聞こえました。

〃お前さんは、犬のことをせっかちに願うけれど、そうはいかないのだ。あの犬の親の親は、よく人にかみついた犬だから、その罪を持って生まれてきている。時を待っておかげを頂かしてやる〃と、このようにはっきり耳に聞こえました」
 
  という話です。友人の妻君という人は、随分古い信者で、初代白神先生の時代から信心していて、相当に分かっている人です。

「あんまりはっきり聞こえたものですから、後を振り向くと、主人がそばに座っていましたので、〃今の声が聞こえましたか〃と尋ねましたが、主人は〃何だ。なんにも聞こえない〃と言いますから、私が聞いたことを話しますと、主人は〃うーん。そんなこともあるのかなあ〃と言って、それでおしまいになりましたが、これは、やっぱり神様がお知らせ下さったのでしょう」
 と言っておりました。

それで、犬は、お願いしてから一週間たちますと、ひかれた右足が、もと通りにならないで、内がわへ曲がってしまいました。さらに一週間たつと、ひかれなかった左足も曲がってしまいました。右足は、車にひかれたのですから、曲がるわけが分かりますが、丈夫なはずの左足まで曲がってしまったのですから、その原因がまったく分かりません。本当におかしな犬です。前足が、左右両方とも曲がってしまって、自由がきかなくなり、見るからにかわいそうです。一日も早く治してやりたいと思いまして、お願いさせて頂いておりました。

 こんなことぐらい、すぐおかげが頂けると思うのですが、三ヵ月たちましても治りません。
 主人がやって来て、
「君、あの犬を返す」
 と言います。
「足は治ったのか」
「いや、まだ治らない」
「こちらからあげた犬だ。返すというのなら、いつでも連れて来てくれ。しかし、あげた時には、足が四本ともそろっていた。かたわの犬ではなかった。足がそろっているのなら、文句を言わずに受け取るが、足が曲がっているのなら、一言だけ、ものを言ってもらいたい」

「何だ。ひどくむずかしいのだなあ」

「なに、ちょっと一言だけ言ってもらえばいい。〃私も、二十何年も信心しているが、あの犬に、ようおかげを頂かせないから、君のところでおかげを蒙ってほしい〃となあ」

「そんなことが言えるものか。かりそめにも二十年も信心しているのだ。もう犬は返さない。うちでおかげを蒙ってみせる」
「そうとも、それが当然だ。それなのに、どうして返すと言うのだ」
「いやそれが、表を通る人が犬を見ては〃かわいそうに〃〃かわいそうに〃と言うので、それが聞きづらいばかりか、歩く格好ときたら、みっともなくて、いやになったのだ。それで、いっそうのこと返そうと思ったのだ」

「そんなことでどうする。もうしばらく願ってやりなさい。私も願わせてもらうから」
 
 こう言い合って別れてから、一ヵ月ほどたちますと、また犬のことを言って来ました。

「あの犬は、よっぽどめぐりが深いとみえる。また車にひかれた」

「どこを?」

「今度は、尻尾をひかれた。それも、ひどいひかれ方をしたとみえて、ぐるりっと皮がむけて、骨が見えている。何しろ前足が不自由なために、逃げようにも逃げられなかったらしい。本当に運の悪い犬だ」

「まあ、願ってやりなさい。私も願うから」
 こんな次第で、それから一週間たちましたが、一番最初に車にひかれた右足が、まっすぐに伸びて、自由に動くようになりました。

 二週間目には左の前足が治り、三週間目には尻尾も、車にひかれた跡も残らず、きれいに治ってしまいました。そして、元の通り元気よく走り回るようになりました。

 ところで、傷がきれいに治ったのですから、何の文句も理屈もないはずなのに、友人がその犬を連れて、私に文句を言いに来ました。

「君は、めぐりというと、いつも、そんなものがあるものかと、反対をしていたけれども、君からもらった犬はどうだった。その親の親が、大層、人にかみついためぐりで、五ヵ月も苦しんだではないか。こんな動物にまで、このように〃めぐり〃ということがあるとすると、これまでどんなことをしてきたか分からない人間の身の上の幸・不幸に、〃めぐり〃というものが関係していると思わずにおられない。それが分からないから、何か不幸な出来事につきあたると、愚痴や不足をならベ、世間を恨むということにもなるのだが、すべて、事が起こるのには、起こるだけの原因が自分の方にあるのだ。それを、神様が、この犬を通して、〃みんな、こんな具合いにめぐるものなり〃ということを、教えて下さったのではあるまいか」

 友人から、そう言われてみると、いかにも、それに違いありません。

「そうだ、そうだ。その通りだ。たしかに教えて下さったのだ」

「しかも、君のところからもらった犬でなあ…」

 神様の思召しは、どこまで深いか分かりません。めぐりについて、もう一息というところで、はっきりと分からなかったところを、犬でもって教えて下さったのです。これには私もかぶとをぬいで、どうしても、信じないではいられなくなってしまいました。
(この「我が信心の歩み」は、2013年5月に掲載されたものです)
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